次に向かったのは、廟内5門の一つ、聖時門であるが、ご覧のように改修工事中のため、内部の様子は見られなかった。明の永楽13年(1415)に建てられた門で、呼称は孟子の「孔子、聖之時者」に因むそうだ。
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改修工事中の聖時門 |
続いて、璧(び)水橋を渡り、大中門に進んだ。璧水橋は、明の弘治13年(1500)に架けられ、清時代に改修されたという。璧水は、天子(皇帝)が学ぶところを取り囲む水を示すそうで、この橋を越えると、そういう場所に入ったことを意味しているらしい。
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璧水橋 正面に見えるのは、弘道門 |
弘道門(2の門)は、明の後部13年(1415)に建てられた。清の雍正帝によって、論語・衛霊公「子曰。人能弘道。非道弘人。」から命名したという。
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弘道門の扁額 |
大中門(3の門)、初めて建てられたのは宋の時代、北宋の時代は孔廟の大門だったそうだ。明の弘治年間に大きく改修(重修)されたという。
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大中門 3の門 |
角楼は、大中門と同文門の中間に位置し、東西の端に建てられていた。
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角楼 |
同文門(4の門)は、始め宋時代に建立されたが、経年で改修が重ねられたという。清の康煕帝の時に「参同門」と名付けられ、雍正7年(1729)に「同文門」と欽定されたそうだ。案内板には、礼記の「書同文、行同倫」から取ったと記るされていたが、中庸の28章には「
今天下車同レ軌、書同レ文、行同レ倫」と記され、「今や天子は車のわだちの度も同じく、書や文字も同じく、礼儀作法の次第順序も同じである」という。特徴として両側に壁がないところが珍しかった。気がつかなかったが、4周に大きな亀の足と龍の首をの石碑が配置されていたそうだ。
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同文門 |
奎文閣は、もと北宋の天嬉2年(1018年)に建立され、金の明昌2年(1191年)の重建を経て、明の弘治17年(1504年)に拡建された中国有数の木造楼閣という。奎文は孔子を天上の奎星(文章を司る星?)に例えていう言葉らしい。
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奎文閣 |
奎文閣内部の一角で書籍・文房具を販売していた。
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奎文閣内部 |
大成門(第七門)の前に植えられた「先師手植檜」(孔子のお手植えの檜)
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「先師手植檜」 |
大成門前櫓の柱には竜が彫られていた。「竜柱」といい、10本ある。
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大成門の竜柱 |
大成殿の両廡(ほそどの、細殿)は全長163mと長く、東西に建てられている。歴代の先賢先儒を供奉しているそうだ。
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大成殿の両廡(細殿) |
杏壇は孔子が儒教を弟子たちに教えたという3層の建物で、大成門と大成殿の間にあり、孔子第45代の人が金の明昌年間に建てたそうだ。建物の名称は杏を植えたことに因むという。
杏壇の天井の四周と中央に竜が合計12描かれていた。鮮やかな金色である。
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杏壇の天井画 |
大成殿は、孔廟の主体的建物で、孔子を祭る中心的な場所である。横9間45.8m、奥行き5間24.9m、高さ24.8mという。前櫓は、浮彫がある10本の石柱(高さ6m、直径0.8m)で支えられている。浮彫は2匹の竜が向かい合う姿で、中央の祭壇には孔子座像が祀られていた。 扁額「生民未有」(生民は持っていないという意味)は清の雍正帝が書いたという。
大成殿の前柱10本には、竜が彫り上げられた竜柱で支えられていた。
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左側の5本 |
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右側の5柱 |
寝殿は孔子夫人を祀る所として、宋の天キ2年(1018年)の建立され、清の雍正8年(1734年)に再建されたという。幅7間33.77m、奥行き4間17.86m、高さ22mである。大成殿をやや小さくしたような建物である。
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孔子夫人の寝所 |
寝殿内部、中央に孔子夫人を祀る祭壇が据えられていた。厨子の中に「至聖先師夫人
神位」と刻まれ牌位(日本でいう位牌)が祀られていた。後漢時代から儒教の葬礼に用いられる神主といわれるものか。
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孔子夫人を祀る祭壇 |
この後、昼飯を食べるため外へ出た。門前の食堂で饂飩を食べてから、孔子の旧宅跡という孔府を見学したが、感心させられるものはなかった。
タクシーで曲阜東駅に戻り、南京行き16:20発の列車
G43号を待った。
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駅正面 |
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改札前の待合風景 |
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ガランとしたホーム |
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和諧号43G号 |