2018年7月28日土曜日

中国一人旅その1(5) 6月6日(火)午後 水師営会見所

昼食を抜きに次に訪ねたのは水師営会見所である。運転士が道行く人に尋ねながら進み、水師営街という一角で駐車し、会見所に入った(入場料40元)。

この家は、水師営という村の農家の一つで、日本軍が占領後野戦病院として使用していて、会見室の机は手術台だっとか。1996年に古い写真をもとに復元されたもの。
会見所・入口
会見所・全景
 尋常小学唱歌「水師営の会見」(作詞・佐々木信綱、作曲・岡見貞一)の2番に「庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸(だんがん)あともいちじるく くずれ残る民屋(みんおく)にいまぞ相見(あいみる)る二将軍」と歌われた木で、何代目かのものらしい。
棗(なつめ)の木
当時の会見所か? ロシア軍人が白馬にまたがっている。
当時の会見所?
日ロ両軍の将帥
日ロ両軍の将帥
会見室の長机、長椅子 これは野戦病院のころの手術台とか。
会見室の長机と長椅子(復元) 野戦病院のころの手術台らしい
乃木将軍の歌碑(正面左)とその拓本(掛け軸、正面)
【余談】会見室の奥の壁に乃木将軍の詩碑と拓本が飾られていた。詩は「金州城」と題し、「山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」と刻まれていた。金州の南山を巡る激戦のあとに読まれ、将軍の日記(1905年6月7日)に記されていたそうだ。将軍の長男がその10日前に南山の戦いのなかで戦死していたといい、また、この後203高地の戦いで次男も亡くしている。
こうした由来を知らないまま、会見所の土産物店でこの拓本(掛け軸)を購入したが、翌日瀋陽への高速鉄道に置き忘れてしまい持って帰ることができなかった。

会見所を後にして大連に向かったが、2時間ほどかかりホテルに着いたのは3時を過ぎていた。運転士に感謝の言葉を伝え謝礼を手渡して別れた。部屋に入ってしばらく休んだ。

2018年7月23日月曜日

中国一人旅その1(4) 6月6日(火)午前 旧関東軍司令部跡を経て203高地へ

旧関東軍司令部跡

日ロ戦争後、遼陽に設置された関東総督府が1906年旅順に移り、関東都督府と改称、陸軍部が設けられ、さらに1919年都督府がなくなって、陸軍部が関東軍司令部になったという。1932年、旧満州国が成立したとき、この司令部も長春(現瀋陽)に移転したそうだ。現在は博物館として一般に開放されていたが、訪問した当日は見学できなかった。

旧関東軍司令部跡
旅順博物館

司令部の建物との間に中ロ記念塔を挟んで向かい側に位置している。中を見学しなかったが、大谷コレクションが収蔵されていて、そのなかには2体のミイラがあるそうだ。
旅順博物館
203高地

高地に至る車道が整備されていて、駐車場に着いた。そこから、頂上まで歩いて10分程上ったところに「爾霊山」(203 二レイサン)と名付けられた慰霊塔があった。乃木司令官が戦没将兵(1万人を越えるらしい)を祀るために残った砲弾で造ったという。高さ10.3m。
203高地紹介板
爾霊山 
ロシア軍の150㎜カノン砲
150㎜カノン砲
 日本軍の280㎜カノン砲
日本軍の280㎜榴弾砲
280mm榴弾砲の説明


【余談】280㎜榴弾砲はもとはここにはなく、北堡塁に近いところに設置されていた
そうだ。この砲によって北堡塁を守護していたロシア軍のコンドラチェンコ将軍(司令官)が戦死したという(写真は碑の前で中国人観光客にガイドが説明しているところ)。
コンドラテェンコ将戦死の所碑
次の目的地は、水師営会見所跡である。途中、旧旅順監獄跡を見学したが、残念ながら写真は撮れなかった。


2018年7月17日火曜日

中国一人旅その1(3) 6月6日(火)午前 旅順・白玉山 

予定していなかった旧旅順監獄を経て白玉山へ案内された。車を駐車させていると、小雨がぱらついてきたが、傘をさして「白玉山塔」へ向かった。

塔の紹介によれば、この塔はかって「表忠塔」といい、日露戦争に戦勝した東郷平八郎と乃木希典が1907‐09年に建てたという。戦後名称が変わり現在は白玉山塔と呼ばれている。高さ66.8m(20丈か)、中の階段は273段、アメリカ製だそうだ。
ここから、旅順口が見事に一望できた。
白玉山塔(旧表忠碑)
白玉山塔紹介
軍港旅順͡
旅順口(正面)
旅順港俯瞰図
【余談】旧旅順監獄(旅順日俄監獄旧跡)を見学したが、写真撮影を控えたので、載せるコメントがありません。ガイドブックによれば、1902年ロシアが建て、日露戦争後、日本が使用したという。多い時は2000人が収容されていたらしい。牢屋のほか、絞首室、安重根展示室も見学できた。

2018年7月14日土曜日

中国一人旅その1(2) 6月6日(火)午前 旅順・東鶏冠山北堡塁

この日は、203高地を巡ることを主目的としていたが、運転手の計らいで白玉山塔や旅順監獄跡が増えた。8時半過ぎホテルを出発し、東鶏冠山北堡塁-白玉山塔-関東軍司令部跡-旅順監獄跡-203高地-水師営会見所跡を巡った。
203高地紹介図
ご承知の通り、日露戦争のなかで、旅順攻囲戦は、1904年8月19日~1905年1月1日にかけて日ロ間で戦われた、日本軍がロシア軍が構築した多数の頑健な要塞(堡塁と砲台)を攻略し陥落させた戦いであったが、戦略・戦術面で様々な見方や評価があるようだ。
双方が投入した戦力は5万人(計10万人)、被った被害(戦死)が1.5万人(計31千人)を越えたそうだ。

1.東鶏冠山北堡塁(203高地紹介図では、右上)
東鶏冠山景区示意図
暗堡
暗堡
日本軍爆破口
ロシア軍塹壕
ロシア軍砲陣
280㎜榴弾砲弾 重量217㎏ 最大射程7.8㎞(陳列室)

次に白玉山に向かった。

2018年7月4日水曜日

中国一人旅その1(1)2017年6月5日(月) 成田から大連へ

【前言】今回の旅の主旨は中国における日ロ・日中間の戦争の跡をたどることであった。大連から瀋陽、北京、曲阜、南京、蘇州、上海と、曲阜と蘇州以外の都市では2~3泊して戦争の跡を訪ねた。各都市間の移動はすべて高速鉄道を利用した。チケットの手配等で、中国人のK君とその友人方にたいへんお世話になった。改めてお礼を申し上げたい。
大連空港
地下鉄2号線に乗り市内に向かった。乗客は少なかった。乗り心地は悪くはなかった。改札口の前に、荷物と身体の検査があった。検査員は若者だったが、丁寧であった。

友好広場駅に着き、地上出口(D)に向かった。歩く方向が当たり、ホテルの近くで地上に出た。チェックインを済ませてから部屋に入り、K君の知人の来訪を待った。約束の時刻にその知人と会い、チケットを受け取った。厚かましいと思ったが、翌日の旅順行きタクシーのチャーターのことを話したら、自社の車を提供してくれるとのこと、有難く依頼した。

部屋に戻ってしばらく休んだ。1時間くらい眠ったと思うが、外出の準備をして、フロントでもらった市内地図(日系企業が日本から赴任してきた人向けに作ったと思われる「大連生活便利MAP」日本語版)を持って散歩に出かけた。

大連市内風景

中山路を東に進むと友好広場(旧西広場)である。車路はロータリー式で信号がなく、車が流れていた。
友好広場(日中)
友好広場(夜景)
続いてしばらく歩くと中山広場(旧大広場)に至った。中央に、大連の測繪基準点(2005年6月16日)があった。古いものではなかった。
中山広場 大連の測繪基準点
旧横浜正金銀行大連支店跡
旧横浜正金銀行大連支店跡
 旧ヤマトホテル跡
旧大和ホテル跡
 広場の印象
カップル1
広場のロータリーから東にのびる魯迅路を進むと、もう一組の撮影現場に出会った。
カップル2
しばらくして右手に中学校があった。「厚徳博学 自強不息 求真務実 開拓選取」と記した看板が掲げられていた。保護者らしい人たちが出てくる生徒を迎えに来ていた。
中学の校門
校門の左手に、郭沫若の「石榴」と題する散文の言葉を記した掲示があり、その前に大きな「石榴の子」が2個置かれていた。因みに、この掲示には、1942年10月31日という日付が記載されていて、時代背景とのつながりや作家の感情が注目されるようだ(第7学年、すなわち中学1年生用の国語教材らしい)。
郭沫若「石榴」1942年
さらに進むと、旧満鉄本社前に至った。ガイドブックの地図では、陳列館があるようだが、開いていなかった。
南満州鉄道旧跡
 遼寧省と大連市の銘板
遼寧省と大連市の銘板(左:市 1993年 右:省 2015年)
旧満鉄大連図書館跡
旧満鉄大連図書館跡
旧満鉄調査部跡か?
旧満鉄調査部跡か?
この後、旧東本願寺(大連京劇団)を訪ねて労働広場まで移動し、その所在を尋ねたが判明しなかった。あきらめてホテルへ戻った。

夕食は、ホテル内の日本料理店で寿司を食べた。閉店間近のためか、客は僕一人、ネタもしゃりもまずまずながら、酒は甘口だった。
夕食で食べた寿司