2015年10月25日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(23) 5月30日(土)午後 シャルロッテンブルグ宮殿のたたずまい

幸い、雨は間もなくやみました。宮殿の正面に至り、その端正な姿が目に入ってきました。正面右手に入り口があり、そこから中の入りました(チケット代12€)。閉館まで長い時間がなく、ゆっくり見られませんでした(もちろん、写真撮影は禁じられていましたので、残念ながら記録写真はありません)。
宮殿the Old Palace
いくつも部屋をとおり、壁、天井、床、家具、調度品、絵画、壁絵、天井画を見ていくことのに結構疲れましたが、印象深いところは、陶器の間(ルーム95)と教会(ルーム94)です。

陶器の間は、壁という壁に、飾り棚を設け、大小様々な中国や日本などの陶器が展示されていました。その数はどれくらいあるのでしょうか。およそ2700点ということですが、数の多さに驚かされました。

続いて入った部屋が、教会でした。王の権威を示すためであるのか、黄金色に輝く王冠に圧倒される思いがしました。

【余談】 図録によれば、殿は1695~1699年の間に、初代プロイセン王フレデリックthe Great Elector Frederick William of Brandenburg(1620-1688)の二番目の王妃シャルロッテのために、小さな夏の宮として建設され、1701-1702年に左右に拡張されたと記されていました。 

宮殿の形 左右の対称がみごと 右上はシュプリー川 〔出所:図録P.3〕
【余録】 この宮殿を建設したフレデリック王は、ホーエンツオレルン家Haus Hohenzollernの支配者でありましたが、図録には、この王から最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世Willam Ⅱ(1859-1941、在位1888-1918)まで、およそ3世紀にわたる王家の系図が掲載されています。

宮殿は、1943年に戦災により大きな被害をうけたとのこと、修復の営みにこの国の人々のすごさを感じました。

さて、宮殿を出て、通りを横断し、王宮通りSchlosstr.の中央路の両脇に、テント張りの下に小店が連なっていました。土日のイベントのようで、手作りの木や金属の工芸品、絵、織物など実に様々な品物がテーブルに並べたり、テントの梁に吊り下げられていました。すでに夕闇が近づいていたため、店じまいをするところもありました。宮殿の整った風景とこの市井の風景に違和感はありませんでした。
王宮通りの小店 土日のイベントのよう
何か当地ならではのものはないかと覗きながら進んでいるとテントが途切れてしまって、大きなビスマルク通りに出ました。

地下鉄の駅ソフィーシャルロッテ広場駅に降りていき、地下を走るUバーンに乗りました。ツォー駅でSバーンに乗り換えたのですが、たいへんな人出です。競技場の最寄り駅ということで、サッカーの試合から戻ってきたらしい男女と子どもたち、揃いのシャツとパンツを身に着け、顔に同じマークを付けている人たちで盛り上がっていました。

地上を走るSバーンに乗り、フリードリッヒ通り駅で下車し、ホテルへ戻りました。7時を過ぎていましたが、まだ宵のような明るさでした。夕食まで少し休むことにしてベッドに入りました。
Uバーン ソフィーシャルロッテ広場駅 

2015年10月22日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(22) 5月30日(土)夕刻 シャルロッテンブルグ宮殿 美しい庭園風景


宮殿内部もさることながら庭園を見ることが主眼でした。東側のゲートから宮殿の北側を進むと広大な庭園が広がっていました。
宮殿から見た庭園
図録によれば、ベルリンは、2001年の修復によりフランススタイルの装飾的でユニークなバロック庭園を持つことになったと記されています。もっとも、歩いている時は、はっきりとはわかりませんでしたが。
結婚式を終えて記念写真を撮っていいました。
中央の通路を進んでいくと、美しい鯉の池Karpfen teichに至りました。池の回りは、深い緑の森が広がっているようでしたが、そちらへ足を伸ばすことはあきらめ、池の端に腰をおろし、眺めていると眠気に誘われ、そのまま眠ってしまいそうでした。
花壇の奥の池
しばらく休息した後、宮殿の方へ戻り、正面にまわりました。日が暮れるまでにはまだかなりの時間があるはずでしたが、空がにわかに陰り、いまにも雨が降ってきそうだと思って急ぎ足で歩いていると、やはり降りはじめました。
庭園から見た宮殿 手前右に花壇の一部が見える

2015年10月19日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(21) 5月30日(土)午後、ツェツィーリエンホーフ宮殿を出て、シャルロッテンブルグ宮殿へ

 宮殿の入り口を出て、右へ300m?ほど進み左へ曲がって行くと右側にバス停Hohenstrがありました。このバス停は603番の終点で、ここから折り返すようです。時刻表を見ると14:32発に乗れそうでした。しばらくしてバスがきましたので、乗り込むと車内はガラガラ数人だけでした。
603番バスの終点
路面電車に乗り換えるバス停が近づいてきましたが、車内の表示板にポツダム駅まで行くことが出ていましたので、そのまま乗り続け、ポツダム駅へ着きました。
ポツダム駅前 路面電車とバスのターミナル
 駅舎の2階(ホームの上)にはファストフード店がいくつかあり、それぞれでお客が食べている姿が見られました。通路上の発車案内表示を見ると、ベルリン行きの快速?がまもなく発車すると、急いで階段を下り、ホームに停車中の電車に乗りました。飲み物を買いたかったのですが、買わずじまいでした。

 車内は若者が大勢乗っていましたが、幸い空いている席があり、そこに座わって窓の外を眺めているうちに眠ってしまったようです。15分くらい眠ったでしょうか、目覚めたとき、電車はこれから向かうシャルロッテンブルグ宮殿に近いと思っていたシャルロッテンブルグ駅に近づいていました。

Sバーン・ベルリン、シャルロッテンブルグ駅
 宮殿までバスが出ているようでしたが、歩けと自らに励ましカイザーフリードリッヒ通りを進みました。これが結構な道のりで、目的地へ着くのに30分近くかかるなど、歩くスピードが落ちていました。

2015年10月13日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(20) 5月30日(金)午後 ツェツィーリエンホーフ宮殿内部の見学


 門を通り抜け、しばらく歩くと宮殿前に着きました。入り口を入り直ぐ右側の扉を開けると入場券/博物館売店(写真、青色に塗りつぶした箇所)がありました。そこで、チケットと写真撮影許可証(紙製のリボンで、腕につける)を買いました(前者6€、後者5€)。
宮殿内部の配置図
宮殿の中庭 正面の建物の奥に会議場がある
 小豆色に塗りつぶされた地階(日本風に言えば1階)を廊下伝いに進み、東北角のソ連の執務室を見学した後、会議場に進みました。

 会議場では、参加国のソ連、アメリカ、イギリスの首脳スターリン、トルーマン(ルーズベルトの死去にともない副大統領から大統領に就任)、アトレー(チャーチルから政権交代で首相に就任)が三角形に配置された一列目の椅子に座り、その両サイドに外相、大使、通訳などが着席していました。2列目には、政治・軍事顧問用の椅子が用意され、さらにその外に、事務担当者用の机と椅子が配置されていました。丸テーブル(直径3.5m)の中央には、各国の小さな国旗が飾られていました。

【余談】 宮殿はソ連が占領していたことから、ホスト役を務めていました。これらの家具は、ソ連がモスクワの家具工場で製造し、運んだということのようだと記されていました。

ポツダム会談場 時計回り・右からソ連、アメリカ、イギリス
続いて、イギリス、アメリカの執務室を見学しました。壁に取り付けられた写真や説明文の中から、印象に残ったものを紹介します。

(1) ポツダム会談(正式には、Berlin Coneference)は、1945年6月17日に始まり、13回の会議を経て8月2日に終了しました。そのベルリン会談報告書のスターリン、トルーマン、アトリ―の署名(8月1日付)が展示されていました。
ベルリン会談と会議報告書の署名(下段中央)
(2) この会談中の7月16日、アメリカは原爆実験に成功しました。7月26日、トルーマンとチャーチルが署名し,蒋介石が電報を通じて署名したポツダム宣言が公表され、日本に無条件降伏を要求しました。そうした動きを背景に太平洋戦争の終結を物語る展示がありました。そこには、アメリカが開発した原子爆弾と広島に投下した時の写真が載せられていました。
太平洋戦争の終結を物語る展示
(3) もう一つ興味を引かれたのは、当時の新聞記事で、右から3枚目、”SUNDAY EXPRESS”の1945年7月22日の記事です。3巨頭の動きを伝える大見出しの下に、次のように書かれていました。

 ”Russia may issue ultimatum to Japan” ソ連は日本に最後通牒を突きつけるだろう

 7月22日の時点で、すでにこのような記事を載せた新聞が発行されていたことに驚きました。

【余談】 日本がソ連に和平仲介を求めて近衛特使の派遣を決めたのが7月12日、これに対し、トルーマンとチャーチル、そして蒋介石(当時、電報で意思を表明)によるポツダム宣言が7月26日、アメリカの広島への原爆投下が8月6日、ソ連の対日宣戦が8月8日、こうした連合軍側の動きが見えていなかったのだろうか、孤立した状況で読めていなかった歴史を振り返り学ぶ意義は非常に大きいと思う。
会談の終結などを報じる各国の新聞
【余談】 宮殿の案内書によれば、皇帝ヴィルヘルムⅡは皇太子の居城を構築するために基金を設立し、1913年5月6日、皇太子の31歳の誕生日に起工式が行われました。第1次大戦のため工事が一時中断されたり、再開されたりしましたが、最後は11月革命と1918年11月9日の君主制崩壊によって打ち切られました。
 皇太子夫妻は、妃が6人目の子どもを出産するため1917年8月14日、室内工事中に移ってきて居住しました。しかしながら、皇太子はオランダ滞在中の1918年11月13日に北海のある島に抑留され、皇太子妃は1920年11月26日まで子どもたちと踏みとどまったということです。
 ところで、皇太子妃の名前は、ツェツィーリエといい北ドイツのメクレンブルグ・シュヴェリーン大公の娘だそうで、宮殿の名称は皇太子妃に由来するのでしょうか。

 1時間余りの見学を終え、売店に寄り宮殿の案内書(何と日本語版がありました!)を買いました。次いで、ポツダム駅へ戻るため603番のバス停へ向かいました。


2015年10月6日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(19) 5月30日(土) ポツダム会談の会場を訪ねる

 目覚めたのは9時40分、たっぷり休んだお蔭で、前日の疲れはどこかへ行ってしまったように思われました。急いで身支度をして、ホテルを出てフリードリッヒ通り駅に向かいました。予定では、8時過ぎにベルリン中央駅からポツダム駅行きの急行に乗るはずでしたが、2時間余り遅くなってしまいました。

 ホームでチケットを買って待っていると、ポツダム行きの電車S Bahnが入ってきました。時間はかかりそうでしたが、このまま乗っていくことにしました。途中、色々な人々が乗り降りしていました。ツォー駅では、黄色いTシャツを着た男女、子どもが大勢降りて行きました。空席が目立つ車内では、自転車を持ち込むひとが目につきました。

 電車は各駅に停まり、11時30分過ぎ、ポツダム駅Potsdam Hauptbahnhofに着きました。駅の南側にTram路面電車やバスの停留所があるとの表示がありましたので、そちらの方で出ました。92番の路面電車を探していると、まさに発車しようとしているではありませんか。進行方向を確かめないまま乗ってしまったため、目的のPlaz der Rinheit/West駅になかなか着きません。30分ほど走って乗客も少なくなったところで、運転士に地図を示して尋ねたところ、方向が逆だったことがわかりました。そこで、戻りの電車に乗り換えました。
92番の路面電車 ポツダム駅を経てPlaz der Rinheit/Westへ
 1時間余り遅れてようやくPlaz der Rinheit/West駅に着き、603番のHohenstr行きバスに乗り換えました。バスの運転席に取り付けられた行き先表示モニターがバス停と最終バス停を示していました。これを見たり、窓の外の街並みを眺めたりしていました。
603番バスの行く先表示モニター
  静かな住宅街を14,5分くらい走り続け、所々で乗客が降りていきました。ツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhofに着きました(実際に下車したバス停は、入り口の2~300m(?)手前にありましたので、入り口まで歩きました)。
ツェツィリーエンホーフ宮殿入り口 左に案内版、右の門柱に消防者用通路の表示
 入り口に門柱はありましたが、門扉らしいものは見られませんでした。観光客もさほど多くは見られず、ちょっとばかり拍子抜けでした。

【余談】 右の門柱の上部に、太い赤色の線で長方形に囲われたなかに、Feuerwehrzufahrtと書かれていました。これを消防車用通路と訳しました。ベルリン・ポツダムの宮殿と庭園(世界遺産、1990年)を保護する対策の一端と見られましたが、警備体制はどうなっているのだろうかと無防備な体制に驚ろかせられました。

2015年10月3日土曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(18) 5月29日(金)夜 ベルリン フィルハーモニー

 フィルハーモニーに戻り、席に着いて開演を待ちました。開演時刻が近づくにつれ、次々と観客が入ってきました。先に席に着いていた人は、後から来た人が通れるよに立ち上がっていました。私も何度か立ち上がりました。
開演前のステージ
まもなく楽団員が入場し、音の調整が始まりました。コンサートマスターが立ち上がりリードしていました。全体が静まったところへ、指揮者Bernard Haitinkが入場してきました。客席に向かって一礼した後、シューベルト・交響曲第5番の演奏がはじまりました。

 オーケストラ全体が一つの楽器になったように思える程、見事な合奏でした。

 次の演奏まで30分間の休憩がありました。ロビーのドリンク売り場では、おおぜいの人が並んでいました。トイレで用を足してから、レストランへ行って見ましたが、そこも人でいっぱいです。コカ・コーラを買って、眠気を振らうため一気に飲み干しました。

 ショップで記念品としてボールペンを買ったりしていると、再開のベルが鳴りましたので、席に戻りました。

 2曲目は、ショスタコヴィッチ・交響曲第15番でした。

 コンサートマスターに樫本大進という日本人がいると聞いていましたが、当日は、その人ではありませんでした。長身のとくに長い足を前に投げ出すようにしながら体全体で演奏している姿が印象的でした。
終演後、観衆が去ったあとの入り口
 【余談】 ベルリンフィルのチケットは、インターネットで購入しました。ホームページで、公演日の50日前、3月8日午前10時(日本時間午後4時)から発売されることがわかり、家族に協力してもらいました。4時から二人でアクセスしましたが、なかなか接続できませんでしたが、しばらくして、家族の方が先に接続でき、最終的にこちらの注文に対するメールが送られて来るまでに、50分近くの時間がかかりました。席は、B rechts, Row 6, Seat 16です。代金は、86€。

 ポツダム広場駅から、地下鉄に乗り(進行方向を間違えたため、次の駅で折り返し)、フリードリッヒ通り駅で下車して、ホテルに戻りました。シャワーを浴びてから、今日の長い工程を振り返り、簡単な日記をつけて眠りにつきました。
ポツダム広場駅 TとPが消えていました。
明日は、ベルリン近郊にあるポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhofを見学に行く予定でした。この旅の重要なポイントです。


2015年10月1日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(17) 5月29日(金)夕刻、博物館島からポツダム広場へ(2)

 フンボルト大学ベルリンの門の中には入らず、先を急ぐことにしました。歩き疲れていたこともあり、タクシーに乗り込み、行く先をフィルハーモニーと告げました。通じたのでしょう、運転手は何も言わず、動き出しました。地図と通り過ぎていく風景を見ているうちに、その玄関に着きました。

 人の姿が見えません。開演時間が近いはずなのに、おかしいなと思いながら、空いている扉から中に入ると、二人連れの若い女性(韓国人かな)と日本人らしい青年がチケット売り場に並んでいるのが見えました。そこで、私も並び、持ってきたeチケットを示し、入場券と引き換えました。よく見ると、開演時間は20時となっているではありません。とんでもない間違いをしていたことに気づきました。
フィルハーモニーの玄関 人の姿が見えません!
さあ、これから2時間近くをどのように過ごすか、休めるところはないかと地図を見ると、ソニーセンターが近くにあることがわかりました。そこで、フィルハーモニーを後にして、幅広いベングリオンBen-Gurion通りを超えたところが、ソニーセンターでした。

 ソニースタイルストアを見てから、中央広場で開いていたレストランJostyのベンチに腰をおろし、ビールとトルコピザを注文しました。ビールは日本では飲んだことがない味でした。また、トルコピザは硬く、少しずつ時間をかけて何とか食べました。少し疲れが和らいだところで、フィルハーモニーへ戻りました。
ソニーセンター レストランJostyで飲んだビール
【余談】 同センターはご存知の方も多いと思いますが、2000年にポツダム広場の再開発の眼玉の一つとして、ソニーやダイムラーの出資によって完成しました。ソニースタイルストアを始め、オフィスビルやアパート、フィルムハウス、商業店舗、シネコンなどが入る複合施設です。尤も、ソニーは2008年3月に保有株式を売却したようで、栄枯盛衰ということでしょうか。