2018年9月25日火曜日

中国一人旅その1(11) 6月8日(木)午後 瀋陽故宮 清朝の古都(発祥地)

地図アプリで検索し出て来たバスに乗り、最寄りのバス停で降り、入り口に向かった。懐遠門を通リ抜けると、門前のような瀋陽路の両側には観光客相手の店が並んでいた。そのなかで麺店を選んで入り、水餃子20個ばかりを一気に食べた。
懐遠門
さらに進むと、故宮らしい建築物が見えてきた。大清門から入場した(入場料60元のところ高齢者は無料)。最初に目にしたのは、崇政殿だが、改修工事中のため全体の姿を見ることはできなかった。
改修工事中の崇政殿
【余談】瀋陽故宮は、後金から興った清朝の発祥地。清の太祖(初代皇帝)ヌルハチ(満州語)、太宗(第二代皇帝、皇太極コウタイキュウ)ホンタイジ(満州語)が建てた宮殿だ。現在、瀋陽故宮博物院として公開されている。面積は6万㎡(北京の12分の1くらいとか)、東路、中路、西路の3エリアに区分され、114の建築物が現存しているという。
2004年、北京故宮博物院と合わせて、世界文化遺産に登録された。

中路の崇政殿を通り抜け、階段を上った一段高いところに3階建ての鳳凰楼が建っていた。
鳳凰楼(南側)
鳳凰楼は後金の1627年から1636年にかけて建立された3層の建築物で、当時瀋陽では最も高いとされていた。1層に取り付けられた扁額は「紫気東来」と読むそうだ。香り高い気が東からやってくる、明から清に王朝が変わったことを示しているという。
鳳凰楼の扁額「紫気東来」
ここは、周囲が高い壁に囲まれた後宮で、鳳凰楼のほか、皇帝や妃の宮殿が建てられていた。

永福宮は、鳳凰楼の右手(西側)で、内部にホンタイジの庄妃の寝室が設けられていた。この宮殿では、第三代皇帝の順治帝が生まれそうだ。
永福宮
寝室
ホンタイジの荘妃
清寧宮は、鳳凰楼の北側、中庭越しに対面するように建てられていた。ここは、ホンタイジとその皇后の寝室が設けられているほか、貴族との接見や祭祀に使用された場所であるという。
清寧宮(中宮とも)
祭祀の場所
ホンタイジ(第2代皇帝)の肖像
関睢宮、ホンタイジの宸妃(同じく庄妃の姉)の寝室である。
間誰宮
寝室
ハンモック? ゆりかご?
 後宮の裏手(北側)には厨房があり、その中に磨房と呼ばれる建物があった。その中に巨大な石臼が一台据えられていた。
磨房
次に東所へ進み、敬典閣を見た。東所は、乾隆帝の時代(1716-1718年)、中路と東路の間に敬典閣をはじめいくつかの建物が建てられた。この建物に王牒が保管されたという。
敬典閣
 東路に入ると、広場の北寄りに大政殿が見えた。大政殿は、清の太祖ヌルハチが瀋陽に遷都する際に建立され、瀋陽故宮のなかでは最も早い。
大政殿は東路の正殿、八角形をしていた。正面の2本柱には、皇帝の象徴とされる金の龍が絡みついていて、驚かされる。内部には玉座が据えられ、ヌルハチ(初代皇帝)はここで盛大に式典を行ったというが、ほこりが積もっているようで残念ながら見栄えがしなかった。
広場の両側に、5棟ずつ合わせて10棟、十王亭というそうだが、並んでいた。左右大臣(翼王)の執務室が2棟、八旗それぞれの建物が8棟である。
大政殿の正面
大政殿(内部)
時計を見ると4時近くなっていた。瀋陽故宮で残る西路や西所の見学は諦め、この日最後の目的地、張氏師府へ行くことにした。

2018年9月9日日曜日

中国一人旅その1(10) 6月8日(木) 9.18歴史博物館を見る 江沢民 苦難・奮起

展示室は、国民に対する教育施設として一定のカリキュラムに基づいて構成されているようであったが、進行に沿って見て写真を撮ったジオラマを中心に紹介したい。

張作霖爆殺事件(満州某重大事件とも、中國では皇姑屯事件とも)が発生したのは、1928年(昭和3年)6月4日で、その3年後に柳条湖事変が勃発している。関東軍が主導したとされ、この後に続く日中戦争(14年戦争)の先駆けとなった。上の満鉄連長線と下の京奉線が立体交差する地点で、張作霖は京奉線をゆっくり走る特別列車に乗っていたという。
張作霖爆殺現場
蒋介石が張学良に訓令する場面のジオラマがあった。
説明文には、1931年9月12日(柳条湖事件の6日前)、石家荘に停車中の列車内で、蒋介石は張学良に対し、「日本軍の進撃に遭遇した場合は、『一切抵抗せず』、代わりに国際連盟に提訴し、平和解決を図るよう訓令した。」という。
蒋介石が張学良に訓令
北大営がジオラマで展示されていた。
柳条湖事件の舞台となった南満州鉄道と北大営
北大営を巡る戦闘図(パネル)を見ると、爆破地点は鉄道線路の西南側に✖で示されている。数字で双方の部隊(関東軍は4中隊)が行動している。の進行方向が表されていて、中国軍は翌19日朝には、東方向へ退却したことがわかる。
北大営戦闘図 青色:中軍 黄色:日軍
梁成竜、金日成が率いていた「汪清遊撃隊」が「討伐隊」(日満軍)を待ち伏せている情景を表している(1933年3月、※汪清は延辺朝鮮自治州汪清県のことか)。
汪清遊撃隊の待ち伏せ 右小高いところで金日成が指揮
説明文(日本語)は「抗日連合軍の」と題し、雪が積もった林の中で『東北抗日連合軍の戦士が「焚き火は胸元を暖めるが、背中を寒風が吹き抜ける」という厳しい環境に耐え抜き、日本軍との長期間、粘り強く、辛苦に耐え、想像を絶する戦いぶりを再現した。』と紹介していた。兵士たちは赤く燃える焚き火を囲んで、若い男(中央右寄り)が奏でる一弦琴(?)の音色に耳を傾けている、安らかな風景のように見えた。
雪が積もった林の中の風景
展示を見終わり出口に向かっていると、次のような3か国語の掲示(結束語、Concluding remarks、まとめ)があった。
掲示板
長文だが以下に紹介しておこう(私の写真ではよく読みとれないので、別の方のブログ「秋の中国東北」2006.09.10から転載)

私たちが展示館を出て行こうとする今、恐らく、人々のそれぞれの心のなかに、血が垂れているであろう。一滴一滴の血が一つ一つの疑問符となって凝固しているに違いない。
日本帝国主義はなぜ敢えて偉大な我が中国に向けて凶刃を振り上げたのか。ここに展示されたそれぞれの写真はことごとく確固たる事実であるのに、なぜ、今日に至ってもなお正視できず、ひいては、それを歪曲し、改ざんしようとする者がいるのか。「落後すれば殴られる」では我が人民はどうして立ち遅れることになったのか。ここに展示されている犠牲者の写真は叫んでいる。
この叫びは我々に「英雄を忘れたら、民族は堕落の国となる」、「苦難を忘れたら、苦難は再び国の門を叩く」、「先ず自分から始めよう、今から始めよう」、「中華を振興することはすべての人民の責任だ」と呼びかけ、教えている。』
【余談】私が撮った写真の文章と少々異なっているところがあることから、展示内容の見直しが行われているようだ。


外へ出て、東側の外壁に沿って歩いていると長大な彫塑が続いていた。題して『奮起』という。説明文によれば、『四つの部分からなる彫塑全体は中華民族の抗争、昂揚、勝利の精神を象徴し、かつそれぞれ次の場面を再現している。』
1.東北義勇軍の奮起
2.愛国学生が燎原の火を転嫁
3.軍民が新しい長城を築き上げる
4.戦争の勝利
時計をみると2時近く、予定時間をオーバーしていた。バス停から、つぎの目的地、『瀋陽故宮」に向かった。