2015年12月28日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(30) 6月1日(日) ワルシャワ旧市街、王宮前広場から宮殿内部へ

ようやく、旧王宮前に辿り着きました。先の大戦で壊滅したそうですが、良く復旧したものだと感心しました。
旧王宮前広場
 右手:旧王宮 左手:ジグムントⅢ世ヴァーサの像(石塔の上部)、城壁址(赤レンガ)
【余談】 ヨーロッパの古代と中世の間(4世紀から8世紀)は、「ゲルマン民族の大移動」が興るなど、民族移動時代と呼ばれています。その後、各地に王国が建てられました。そのなかの一つが、ポーランド王国で、1025年に始まり、ミェシュコⅠ世が戴冠しました。この王国は1569年まで続き、この間の14世紀にリトアニア大公国と合同し、ポーランド・リトアニア共和国を形成しました。この共和国は、当時人口や領土においてヨーロッパ最大の国家といわれました。

ジグムントⅢ世ヴァーサという人は、このポーランド・リトアニア共和国の王(1587-1632)で、スウェーデン王(1592-1599)でもありました)、1596年に都をクラクフからワルシャワへ遷させました。
 
王の碑は戦災で粉々になりましたが、これらを拾い集め復元したということです。王の碑の西側(左)には、赤いレンガ造りの城壁バルバガンの跡が残っていました。
王宮内の中庭 右手が入り口で入場券売り場がある
王宮の中庭に入り、左手の入口のなかで入場券を買いました(23ズウォティ)。クロークに荷物を預け、ガイドマップに沿って1F(日本風に言えば2階)に上がり、見学を始めました。そうしたなかで、印象深いシーンを写真で紹介します。


【入場した時刻は10時ちょうど、次にギャラリーに入った時刻から計算すると1時間20分近くを見学に費やしたことになります。

最初は、The Great Assenbly Hall大会議室と呼ばれる広い部屋に入ったところで、窓から見た風景です。やや東北の方向に向かっていて、手前に緑の庭園、その先にヴィスワ川、さらに遠くに教会の2つの尖塔が見えました。
大会議室の窓から見た風景 緑の庭園、ヴィスワ川、二つの尖塔
次は、同じ大会議室の天井画です。どういう光景なのか、ストーリーがあるのかわかりませんでしたが、明るい色彩で描かれていながら、ちょっと恐ろしい感じがしました。

三番目は、王冠の間と記された部屋の玉座です。部屋のインテリアは、1784-86年にデザインされたもので、後ろの壁かけと天蓋には、86個の鷲が銀の糸で刺繍されているとか。これらは、第2次大戦中に分捕られ残っていたものをもとに復元したそうです。
玉座
次に紹介する絵画は、ヤン・マテイコ(ポーランドの画家)の1891年の作品で、「1791年5月3日憲法」という名前が付けられていました。当時は、ポーランド・リトアニア共和国の時代で、王はスワニスワフⅡ世です。この憲法は、アメリカ合衆国憲法に次いで先進的な民主憲法と言われています。絵の中央右寄りの人物スタニスワフ マラコフスキStanislaw Malachowski(国会議長、憲法署名人の一人)が右手に掲げる文書にこの憲法が書かれているそうです。左寄りの赤いマントを着けた人物が王のスワニスワフⅡ世、また、右端、馬上の将校は、王の従弟、ユゼフ・ポニャトフスキということです。
ヤン・マテイコ 5月3日憲法
最後に紹介するのは、ギャラリーのレンブラント(1606-1669)の作品が展示されている部屋です。宮殿を見終って一端外へ出ましたが、レンブラントの作品が展示されているというガイドブックの記事を思い出し、改めてギャラリーの入場券を買い、中へ入りました(入場料21ズウォティ)。入ってすぐのところに、展示室がありました。素晴らしい作品でした。左がGirl in Picture Frame(額縁のなかの少女)、右がScholar at Writing Table(机の前の学者)という作品です。川村記念美術館でレンブラントの作品を見たことがあるだけに、興味深く鑑賞しました。
ギャラリーのレンブラントの作品が展示されている部屋
【余談】 これらの2作品は、1994年にKarolina Lanckoronskaから王宮に寄贈された絵画の一部でです。少女の絵は、1641年の作ということです。2010年に東京富士美術館において、ポーランドの至宝として展示されたことがあるそうで、その折のブログを読むと、結構な歴史があるようです。

監視員のいない折に写したためか、ピントがあっていません。お許し願いたい。見終わってから、次の部屋へ、次の部屋へと進むと、王宮で使われていた調度品や食器、武具や武器などが展示されていて、他に見ている人もなく、監視員に怪しげに見られているようで、気分はよくありませんでした。明るい外へ出て、ほっとしました。

2015年12月9日水曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(29) 6月1日(月) 旧市街を目指して歩くと

ホテルを出て、文化科学宮殿に向かって歩きました。非常に幅広いE.Plater通りを左(北方向)に曲がったところで、こんな光景に出会いました。何かの撮影風景で、モデルと思しき女性が回転ドアのまえで、指示を受けているようにみえました。路上のオープンカーには、サングラスをかけた3人がなにやらおしゃべりをしていました。

その脇を通り過ぎて進むと、スターバックスの看板が見えましたので、中へ入り、コーヒーとシナモンロールを注文し、階上のフロアで、ベンチタイプの椅子に腰掛けて飲み、食べました。ロールの味はニューヨーク、東京と違いは感じませんでした。  
モデルに指示する女性
地図を頼りに、北へ進み、突き当たったところを右(東方向)に曲がり、道なりに進んでいくと樹木が鬱蒼と茂る公園サスキSaski庭園に辿り着きました。進む方向に間違いはなかったようで、公園のなかに入り、進んでいると噴水があるところにきました。その先に門か塔のような構造物が見えました。無名戦士の墓でした。2人の兵士が銃を持った姿勢で火を守っていました。
無名戦士の墓 両脇に2人の兵士が屹立していました。
墓の前のピルサドスキー広場を通り過ぎ少し歩くと、王宮へ向かうクラクフ郊外通りに出ました。まだ観光客が来る前のようで、人通りも車も多くは見られませんでした。
旧王宮への道
王宮前広場に向かって進んでいると、アパートのような建物の3階の窓が開いていて、若い女性の姿が目に入りました。読書をしているのか、それとも携帯電話でも見ているんか、東から降り注ぐ火を浴びて、気持ちよさそうに立っている姿は結構魅力的に見えました。
窓辺で?する若い女性
旧市街にある王宮まであとわずかです。

【余談】 前回紹介した「ワルシャワのTOP10」によれば、「旧市街には、700年の歴史があります。第2次世界大戦で完全に破壊されましたが、その後ゼロから復元されました。」とあります。

2015年11月29日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(28) 5月31日(日)3時過ぎ ワルシャワ駅前のモールを通り抜ける

ワルシャワ駅のホームから地下通路を通り、地上へをエスカレーターで上って外へ出たところ(改札口がない)、大勢の人々が行き交っていたなかを進み、大きなビル中のショッピングモールを通り抜けてZlota通りに出ました。右(東)側をみると、古い高層ビルが立っていました。文化科学宮殿と言われる共産党政権下、スターリンの贈り物として建設された建物(1952~1956年、37階建て、塔の高さ234m)です。
ワルシャワ文化科学宮殿
横断歩道を渡ったところにメルキュールホテルがありました。ここに2泊する予定です。部屋に入り、荷解きをしてから、少し休むことにしました。ベルリンのホテルと比べると格段良い部屋で、ベッドもキングサイズで、ゆっくり休めました。

小1時間も休んで長い列車の旅の疲れが少しばかり和らいだところで、街歩きにでかけました。まず、モールのショッピング街にあった両替屋に行き、円からポーランド通貨Pnlに交換しました。国内では、ポーランド通貨Pnlに替えることができませんでした。5000円に対し、交換比率0.025で、125Plnを手に入れました。

モールを出て、文化科学宮殿に向かいました。横断歩道に行くところで、美しいベンツを見つけました。相当古い年式のものと思われました。
文化科学宮殿前の通りで見かけたベンツ 何年製?
通りを横切り、宮殿前に進んだ。案内所が見つかったので、入ると女性が一人いました。入り口わきにラックがあり、観光案内が並んでいました。「ワルシャワのTOP10」という文庫サイズのリーフレットを手に取って見ると、日本語で見どころのさわりが紹介されているではありませんか。女性に断って1冊と地図をもらい、外へ出ました。南から東へ、そして北側へとひと回りしました。結局、時間が遅かったため、中へは入らず、ホテルへ戻りました。
ホテルメルキュールのレストランで
夕食は、ホテルのレストランWinestoneで、ワインを飲み、サーモンを食べました。香草の彩もあり、美味しく味わいました。この旅行で料理らしい料理を食べたのは初めてです。部屋に戻り、浴室でゆっくり湯に浸かり、疲れた体を休めました。残念なことにWifiが使えず(設定が上手くいかなかったため)、明日の行程を地図で確かめ、早々に眠りました。

2015年11月22日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(27) 5月31日(日) ベルリンからワルシャワへ 車窓風景

車中から撮った写真のなかから、おやっと思った景色や穏やかな田園風景を紹介します。
火力発電所か ベルリン中央駅を出てまもなし
前回にも書きましたが、ドイツ・ポーランド国境はオーデル川で、ドイツ側のフランクフルト(オーダー)を出ると間もなく、オーデル川を渡り、ポーランドに入りました、残念なことに、写真が撮れていませんので、紹介できません。
ガスパイプ? 何のためのエネルギー源
ポーランドに入ってから、いくつか珍しい景色を撮ることができました。パイプラインはその一つです(上)。また、発電用風車が見られるところもありました(下)。
発電用風車 ここのほかでも見られた
郊外の住宅団地があり、路面電車が走っている風景も目にしました。日曜日で、人影はごくまばらでした。
左奥:住宅団地 右奥:郊外電車?
ポーランドに入ってからの地形は、起伏はあるものの、ほとんどが平原、穀物を栽培する農地が続きました。そうしたなかで、牛を飼う牧草地も見られました。

また、集落のはずれに教会(下)がみられました。集落といってもどれくらいの人(農民?)が住んでいるのか、さほど多くの住居があるようには見えませんでしたが。教会は、周辺の人たちの献金によって支えられているのでしょうから、この近郊にはかなりの人々が生活しているに違いないと思いました。
草原の中に建つ教会
こんな風景も見られました(下)。農場の中で、風車が回っていました。
農場の中で回る風車
前回書きましたように、Kutno駅を14:00に出て、終点ワルシャワに着いたのは、15時過ぎでした。今回の旅行の時期は昨今のような難民問題は発生しておらず、鉄道はほぼ正確に運行されていました。
車中で 向いに座っていた男性が撮ってくれました。

2015年11月13日金曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(26) 5月31日(日) DBに乗り、ベルリンからワルシャワへ 

ホテルアレグラをチェックアウトして、フリードリッヒ駅へ向かいました。シュプリー川を渡る階段を上るとプラットホームへ上る階段につながっていました。入ってきた電車に乗り、一駅隣りのベルリン中央駅に着きました。すでに一度きたところです。コーヒーショップでカフェラテとパンを買い、チケット売り場兼待合室に入り食べました。勝手がわからず、ラウンジに入ろうとしたら、2等車の乗客は利用できないと断られました。

発車時刻9:37が近づいてきたので、指定された11番ホームにあがり、列車の到着を待ちました。この列車に乗ろうとする人が少しずつ増えてきました。何号車なのか分からないままに入ってきた列車に乗り込み空いている席に座っていると、後から来た人に間違いを指摘され、チケットを見せると、教えてくれました。2等269号車の66番が私の席だと分かり、そちらへ移動しました。車室に入ると、席は進行方向に向いた窓際でした。スーツケースをシートの下に押し込み、腰掛けました。

Eチケットと日本から持ってきたPoland Tourist Map(Polish Tourist Organisation発行、西新宿、甲州街道沿いのビルを訪ねて入手した)を手元に、5時間半、650kmの旅が始まりました。

CiV1080  Warzawa行き
車室は進行方向右側にあり、左側は通路となっていました。2等は3人掛けのベンチが向かい合う形でした。発車した時は5人でしたが、途中から1人増え、6人になりました。夫婦らしき男女、おそらくポーランド人は何か話しているほか、他の4人は無言で、新聞を読んだり、雑誌を読んだり、眠ったりして、過ごしました。
通路
車掌の巡回(検札)は3回ありました。チケットに刻印をしていきました。Frankfurt(oder)駅を出て、オーデル川を渡り国境を通過しましたが、何も変わったことはありませんでした。

【余談】 ご存知のように、ポーランドとドイツはEUの加盟国で、シェンゲン協定(参加国間の国境検の撤廃を規定)に参加しているからです。昨今の難民問題の影響が、難民以外の人の移動に及んでいるのかいないのか知りたいところです。
Wg.269車両の車室 右奥に座っていました。
ベルリン中央駅を9:37に発車した列車は、約1時間後フランクフルトFrankfurt(oder)に着き、10:
45に発車、間もなく国境のオーデル川を渡り、ポーランドに入りました。その後、手元のメモによれば、Swiebodzin11:33発、Poznan12:30発、Konin13:20発、Kutno14:00発、そして、Warszaw15:05過ぎほぼ定刻に到着し、5時間半近くの鉄道の旅が終わりました。
Wg.269車両の入り口 ワルシャワで降りた時
※窓外の風景は次回に紹介します。ただ残念なことに、オーデル川を渡った際の写真が撮れていません。そもそもいつ渡ったのかもわからず、おそらくフランクフルト駅を出て直ぐのことだったのでしょう。

2015年11月6日金曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(25) 5月31日(日)朝 ベルリン医科大学病院Chariteを散歩

朝早く目覚めたので、散歩がてら近くの森鴎外記念館からフンボルト大学ベルリン医学部付属病院Chariteまで歩いてみることにしました。ホテルを出て、マリーエン通りを真っすぐ西へ歩き、ルイゼン通りを右へ曲がる角の建物に記念館があります。今度は北に向かって歩きました。5〜600mくらいでしょうか、カール広場を通り過ぎると門がありました。扉が開いていましたので、中へ進みました。
大学病院の案内板
最初に目についたのが、小児科教室です。その前の周回道路に思える道を辿って一周しました。
早朝で、出勤する人の姿もほとんど見えませんでした。
小児科教室
新しい様式の建物は、建設中の高層ビルとマックスプランク研究所Max Planck-Institut fur Infektionsbiologieの建物くらいで、これら以外はほとんどレンガ造りでした。戦災に遭ったと思わましたが、古色を帯びた外観からはそうでもないのか、大戦後70年が過ぎているからとか、いろいろ想像しました。

【余談】 ある教室の前を通っていると、数人の男女が壁際で煙草を吸っていました。さすがに、教室内では喫煙できないのだなと思いました。
精神神経科教室
ホテルへ戻るとき別の通りを選んだため、予想以上に時間がかかりましたが、何とかホテルに辿り着き、予定したチェックアウト時刻にも間に合いました。

【余談】 森鴎外は陸軍軍医としてドイツに留学し、2年間(1887~1888年)滞在しました。記念館は、そのうちのベルリン滞在中の最初の下宿先だったところだそうで、現在はフンボルト大学に付属しているということです。下宿先に近い大学病院では、どのような教室で何を研究したのでしょうか。記念館の中を見学しなかったことは、残念でした。

2015年11月3日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(24) 5月30日(土)夕刻 シュプリー川の夕景、寿司を食べに行く

一休みしてから、夕食を食べにでかけた。今晩はベルリンの寿司を食べてみようと検索すると「一心」という店がでてきました。地図を調べるとホテルかそう遠くないところにあることがわかりました。
ベルリンで4泊したホテルアレグラ
夕日を浴びるホテルを後に、フリードリッヒ通り駅へ向かいました。シュプリー川にかかる鉄道橋を渡っていると、観光船がゆっくり進んできました。河岸沿いに並ぶテントの下で、食事をしている人たちの姿も見えました。
シュプリー川の観光船 鉄道橋から
ガイドブックには、フリードリッヒ通りの東側に、ベルリンでよく知られたドゥスマンDussmann das KulturKaufhaus(文化のデパートtでもいうのか)があると載っていたことを思い出し、ちょっと寄って見ることにしました。

店舗は、ドロテーエン通りとミッテル通りの間にあり、すぐ見つかりました。窓越しに、店内の様子が窺え興味がそそられました。地上階、1階、2階(日本風では1階、2階、3階)と、書籍を始め、CD/DVD、文房具など実に様々な品物が売られていました。デパートと言われる所以でしょうか。
すし一心の看板 Mittelstr.ミッテル通り
ドゥスマンを出て、ミッテル通りを西へ50mあまり歩くと「すし一心」の看板が出ていました。中へ入ると、ファミリーレストラン風で、若い家族ずれや男女のカップルが大声で話をしながら箸で寿司をつまみ口へ運んでいる風景が見られました。私は、日本人かと思えるようなウエイトレスに、熱燗と握りの盛り合わせを注文しました。酒は大関、シャリはどこの産地のものだろうかなどと考えながら、飲み、そしてつまんでいるとあっという間もなく、食べ終わりました。今日は朝からまともに食事をしていませんでした。

【予断】 寿司は、この後、ワルシャワとミュンヘンでも食べましたが、ベルリンのこの店がもっとも日本に近いように思いました。

ホテルに戻り、荷物を整理し、シャワーを浴びてからベッドに入りました。ベルリンからポツダムを巡る観光は今日で終わり、いよいよ明日5月31日(日)は、鉄道で第2の訪問地ポーランドのワルシャワへ移動します。

2015年10月25日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(23) 5月30日(土)午後 シャルロッテンブルグ宮殿のたたずまい

幸い、雨は間もなくやみました。宮殿の正面に至り、その端正な姿が目に入ってきました。正面右手に入り口があり、そこから中の入りました(チケット代12€)。閉館まで長い時間がなく、ゆっくり見られませんでした(もちろん、写真撮影は禁じられていましたので、残念ながら記録写真はありません)。
宮殿the Old Palace
いくつも部屋をとおり、壁、天井、床、家具、調度品、絵画、壁絵、天井画を見ていくことのに結構疲れましたが、印象深いところは、陶器の間(ルーム95)と教会(ルーム94)です。

陶器の間は、壁という壁に、飾り棚を設け、大小様々な中国や日本などの陶器が展示されていました。その数はどれくらいあるのでしょうか。およそ2700点ということですが、数の多さに驚かされました。

続いて入った部屋が、教会でした。王の権威を示すためであるのか、黄金色に輝く王冠に圧倒される思いがしました。

【余談】 図録によれば、殿は1695~1699年の間に、初代プロイセン王フレデリックthe Great Elector Frederick William of Brandenburg(1620-1688)の二番目の王妃シャルロッテのために、小さな夏の宮として建設され、1701-1702年に左右に拡張されたと記されていました。 

宮殿の形 左右の対称がみごと 右上はシュプリー川 〔出所:図録P.3〕
【余録】 この宮殿を建設したフレデリック王は、ホーエンツオレルン家Haus Hohenzollernの支配者でありましたが、図録には、この王から最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世Willam Ⅱ(1859-1941、在位1888-1918)まで、およそ3世紀にわたる王家の系図が掲載されています。

宮殿は、1943年に戦災により大きな被害をうけたとのこと、修復の営みにこの国の人々のすごさを感じました。

さて、宮殿を出て、通りを横断し、王宮通りSchlosstr.の中央路の両脇に、テント張りの下に小店が連なっていました。土日のイベントのようで、手作りの木や金属の工芸品、絵、織物など実に様々な品物がテーブルに並べたり、テントの梁に吊り下げられていました。すでに夕闇が近づいていたため、店じまいをするところもありました。宮殿の整った風景とこの市井の風景に違和感はありませんでした。
王宮通りの小店 土日のイベントのよう
何か当地ならではのものはないかと覗きながら進んでいるとテントが途切れてしまって、大きなビスマルク通りに出ました。

地下鉄の駅ソフィーシャルロッテ広場駅に降りていき、地下を走るUバーンに乗りました。ツォー駅でSバーンに乗り換えたのですが、たいへんな人出です。競技場の最寄り駅ということで、サッカーの試合から戻ってきたらしい男女と子どもたち、揃いのシャツとパンツを身に着け、顔に同じマークを付けている人たちで盛り上がっていました。

地上を走るSバーンに乗り、フリードリッヒ通り駅で下車し、ホテルへ戻りました。7時を過ぎていましたが、まだ宵のような明るさでした。夕食まで少し休むことにしてベッドに入りました。
Uバーン ソフィーシャルロッテ広場駅 

2015年10月22日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(22) 5月30日(土)夕刻 シャルロッテンブルグ宮殿 美しい庭園風景


宮殿内部もさることながら庭園を見ることが主眼でした。東側のゲートから宮殿の北側を進むと広大な庭園が広がっていました。
宮殿から見た庭園
図録によれば、ベルリンは、2001年の修復によりフランススタイルの装飾的でユニークなバロック庭園を持つことになったと記されています。もっとも、歩いている時は、はっきりとはわかりませんでしたが。
結婚式を終えて記念写真を撮っていいました。
中央の通路を進んでいくと、美しい鯉の池Karpfen teichに至りました。池の回りは、深い緑の森が広がっているようでしたが、そちらへ足を伸ばすことはあきらめ、池の端に腰をおろし、眺めていると眠気に誘われ、そのまま眠ってしまいそうでした。
花壇の奥の池
しばらく休息した後、宮殿の方へ戻り、正面にまわりました。日が暮れるまでにはまだかなりの時間があるはずでしたが、空がにわかに陰り、いまにも雨が降ってきそうだと思って急ぎ足で歩いていると、やはり降りはじめました。
庭園から見た宮殿 手前右に花壇の一部が見える

2015年10月19日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(21) 5月30日(土)午後、ツェツィーリエンホーフ宮殿を出て、シャルロッテンブルグ宮殿へ

 宮殿の入り口を出て、右へ300m?ほど進み左へ曲がって行くと右側にバス停Hohenstrがありました。このバス停は603番の終点で、ここから折り返すようです。時刻表を見ると14:32発に乗れそうでした。しばらくしてバスがきましたので、乗り込むと車内はガラガラ数人だけでした。
603番バスの終点
路面電車に乗り換えるバス停が近づいてきましたが、車内の表示板にポツダム駅まで行くことが出ていましたので、そのまま乗り続け、ポツダム駅へ着きました。
ポツダム駅前 路面電車とバスのターミナル
 駅舎の2階(ホームの上)にはファストフード店がいくつかあり、それぞれでお客が食べている姿が見られました。通路上の発車案内表示を見ると、ベルリン行きの快速?がまもなく発車すると、急いで階段を下り、ホームに停車中の電車に乗りました。飲み物を買いたかったのですが、買わずじまいでした。

 車内は若者が大勢乗っていましたが、幸い空いている席があり、そこに座わって窓の外を眺めているうちに眠ってしまったようです。15分くらい眠ったでしょうか、目覚めたとき、電車はこれから向かうシャルロッテンブルグ宮殿に近いと思っていたシャルロッテンブルグ駅に近づいていました。

Sバーン・ベルリン、シャルロッテンブルグ駅
 宮殿までバスが出ているようでしたが、歩けと自らに励ましカイザーフリードリッヒ通りを進みました。これが結構な道のりで、目的地へ着くのに30分近くかかるなど、歩くスピードが落ちていました。

2015年10月13日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(20) 5月30日(金)午後 ツェツィーリエンホーフ宮殿内部の見学


 門を通り抜け、しばらく歩くと宮殿前に着きました。入り口を入り直ぐ右側の扉を開けると入場券/博物館売店(写真、青色に塗りつぶした箇所)がありました。そこで、チケットと写真撮影許可証(紙製のリボンで、腕につける)を買いました(前者6€、後者5€)。
宮殿内部の配置図
宮殿の中庭 正面の建物の奥に会議場がある
 小豆色に塗りつぶされた地階(日本風に言えば1階)を廊下伝いに進み、東北角のソ連の執務室を見学した後、会議場に進みました。

 会議場では、参加国のソ連、アメリカ、イギリスの首脳スターリン、トルーマン(ルーズベルトの死去にともない副大統領から大統領に就任)、アトレー(チャーチルから政権交代で首相に就任)が三角形に配置された一列目の椅子に座り、その両サイドに外相、大使、通訳などが着席していました。2列目には、政治・軍事顧問用の椅子が用意され、さらにその外に、事務担当者用の机と椅子が配置されていました。丸テーブル(直径3.5m)の中央には、各国の小さな国旗が飾られていました。

【余談】 宮殿はソ連が占領していたことから、ホスト役を務めていました。これらの家具は、ソ連がモスクワの家具工場で製造し、運んだということのようだと記されていました。

ポツダム会談場 時計回り・右からソ連、アメリカ、イギリス
続いて、イギリス、アメリカの執務室を見学しました。壁に取り付けられた写真や説明文の中から、印象に残ったものを紹介します。

(1) ポツダム会談(正式には、Berlin Coneference)は、1945年6月17日に始まり、13回の会議を経て8月2日に終了しました。そのベルリン会談報告書のスターリン、トルーマン、アトリ―の署名(8月1日付)が展示されていました。
ベルリン会談と会議報告書の署名(下段中央)
(2) この会談中の7月16日、アメリカは原爆実験に成功しました。7月26日、トルーマンとチャーチルが署名し,蒋介石が電報を通じて署名したポツダム宣言が公表され、日本に無条件降伏を要求しました。そうした動きを背景に太平洋戦争の終結を物語る展示がありました。そこには、アメリカが開発した原子爆弾と広島に投下した時の写真が載せられていました。
太平洋戦争の終結を物語る展示
(3) もう一つ興味を引かれたのは、当時の新聞記事で、右から3枚目、”SUNDAY EXPRESS”の1945年7月22日の記事です。3巨頭の動きを伝える大見出しの下に、次のように書かれていました。

 ”Russia may issue ultimatum to Japan” ソ連は日本に最後通牒を突きつけるだろう

 7月22日の時点で、すでにこのような記事を載せた新聞が発行されていたことに驚きました。

【余談】 日本がソ連に和平仲介を求めて近衛特使の派遣を決めたのが7月12日、これに対し、トルーマンとチャーチル、そして蒋介石(当時、電報で意思を表明)によるポツダム宣言が7月26日、アメリカの広島への原爆投下が8月6日、ソ連の対日宣戦が8月8日、こうした連合軍側の動きが見えていなかったのだろうか、孤立した状況で読めていなかった歴史を振り返り学ぶ意義は非常に大きいと思う。
会談の終結などを報じる各国の新聞
【余談】 宮殿の案内書によれば、皇帝ヴィルヘルムⅡは皇太子の居城を構築するために基金を設立し、1913年5月6日、皇太子の31歳の誕生日に起工式が行われました。第1次大戦のため工事が一時中断されたり、再開されたりしましたが、最後は11月革命と1918年11月9日の君主制崩壊によって打ち切られました。
 皇太子夫妻は、妃が6人目の子どもを出産するため1917年8月14日、室内工事中に移ってきて居住しました。しかしながら、皇太子はオランダ滞在中の1918年11月13日に北海のある島に抑留され、皇太子妃は1920年11月26日まで子どもたちと踏みとどまったということです。
 ところで、皇太子妃の名前は、ツェツィーリエといい北ドイツのメクレンブルグ・シュヴェリーン大公の娘だそうで、宮殿の名称は皇太子妃に由来するのでしょうか。

 1時間余りの見学を終え、売店に寄り宮殿の案内書(何と日本語版がありました!)を買いました。次いで、ポツダム駅へ戻るため603番のバス停へ向かいました。


2015年10月6日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(19) 5月30日(土) ポツダム会談の会場を訪ねる

 目覚めたのは9時40分、たっぷり休んだお蔭で、前日の疲れはどこかへ行ってしまったように思われました。急いで身支度をして、ホテルを出てフリードリッヒ通り駅に向かいました。予定では、8時過ぎにベルリン中央駅からポツダム駅行きの急行に乗るはずでしたが、2時間余り遅くなってしまいました。

 ホームでチケットを買って待っていると、ポツダム行きの電車S Bahnが入ってきました。時間はかかりそうでしたが、このまま乗っていくことにしました。途中、色々な人々が乗り降りしていました。ツォー駅では、黄色いTシャツを着た男女、子どもが大勢降りて行きました。空席が目立つ車内では、自転車を持ち込むひとが目につきました。

 電車は各駅に停まり、11時30分過ぎ、ポツダム駅Potsdam Hauptbahnhofに着きました。駅の南側にTram路面電車やバスの停留所があるとの表示がありましたので、そちらの方で出ました。92番の路面電車を探していると、まさに発車しようとしているではありませんか。進行方向を確かめないまま乗ってしまったため、目的のPlaz der Rinheit/West駅になかなか着きません。30分ほど走って乗客も少なくなったところで、運転士に地図を示して尋ねたところ、方向が逆だったことがわかりました。そこで、戻りの電車に乗り換えました。
92番の路面電車 ポツダム駅を経てPlaz der Rinheit/Westへ
 1時間余り遅れてようやくPlaz der Rinheit/West駅に着き、603番のHohenstr行きバスに乗り換えました。バスの運転席に取り付けられた行き先表示モニターがバス停と最終バス停を示していました。これを見たり、窓の外の街並みを眺めたりしていました。
603番バスの行く先表示モニター
  静かな住宅街を14,5分くらい走り続け、所々で乗客が降りていきました。ツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhofに着きました(実際に下車したバス停は、入り口の2~300m(?)手前にありましたので、入り口まで歩きました)。
ツェツィリーエンホーフ宮殿入り口 左に案内版、右の門柱に消防者用通路の表示
 入り口に門柱はありましたが、門扉らしいものは見られませんでした。観光客もさほど多くは見られず、ちょっとばかり拍子抜けでした。

【余談】 右の門柱の上部に、太い赤色の線で長方形に囲われたなかに、Feuerwehrzufahrtと書かれていました。これを消防車用通路と訳しました。ベルリン・ポツダムの宮殿と庭園(世界遺産、1990年)を保護する対策の一端と見られましたが、警備体制はどうなっているのだろうかと無防備な体制に驚ろかせられました。