2019年10月24日木曜日

中国一人旅その1(35) 6月12日(月) 孔廟(2) 

次に向かったのは、廟内5門の一つ、聖時門であるが、ご覧のように改修工事中のため、内部の様子は見られなかった。明の永楽13年(1415)に建てられた門で、呼称は孟子の「孔子、聖之時者」に因むそうだ。
改修工事中の聖時門
続いて、璧(び)水橋を渡り、大中門に進んだ。璧水橋は、明の弘治13年(1500)に架けられ、清時代に改修されたという。璧水は、天子(皇帝)が学ぶところを取り囲む水を示すそうで、この橋を越えると、そういう場所に入ったことを意味しているらしい。
璧水橋 正面に見えるのは、弘道門
弘道門(2の門)は、明の後部13年(1415)に建てられた。清の雍正帝によって、論語・衛霊公「子曰。人能弘道。非道弘人。」から命名したという。
弘道門の扁額
大中門(3の門)、初めて建てられたのは宋の時代、北宋の時代は孔廟の大門だったそうだ。明の弘治年間に大きく改修(重修)されたという。
大中門 3の門
角楼は、大中門と同文門の中間に位置し、東西の端に建てられていた。
角楼
同文門(4の門)は、始め宋時代に建立されたが、経年で改修が重ねられたという。清の康煕帝の時に「参同門」と名付けられ、雍正7年(1729)に「同文門」と欽定されたそうだ。案内板には、礼記の「書同文、行同倫」から取ったと記るされていたが、中庸の28章には「今天下車同軌、書同文、行同倫」と記され、「今や天子は車のわだちの度も同じく、書や文字も同じく、礼儀作法の次第順序も同じである」という。特徴として両側に壁がないところが珍しかった。気がつかなかったが、4周に大きな亀の足と龍の首をの石碑が配置されていたそうだ。
同文門
奎文閣は、もと北宋の天嬉2年(1018年)に建立され、金の明昌2年(1191年)の重建を経て、明の弘治17年(1504年)に拡建された中国有数の木造楼閣という。奎文は孔子を天上の奎星(文章を司る星?)に例えていう言葉らしい。
奎文閣
奎文閣内部の一角で書籍・文房具を販売していた。
奎文閣内部
大成門(第七門)の前に植えられた「先師手植檜」(孔子のお手植えの檜)
「先師手植檜」
大成門前櫓の柱には竜が彫られていた。「竜柱」といい、10本ある。
大成門の竜柱
大成殿の両廡(ほそどの、細殿)は全長163mと長く、東西に建てられている。歴代の先賢先儒を供奉しているそうだ。
大成殿の両廡(細殿)
杏壇は孔子が儒教を弟子たちに教えたという3層の建物で、大成門と大成殿の間にあり、孔子第45代の人が金の明昌年間に建てたそうだ。建物の名称は杏を植えたことに因むという。
杏壇の天井の四周と中央に竜が合計12描かれていた。鮮やかな金色である。
杏壇の天井画
大成殿は、孔廟の主体的建物で、孔子を祭る中心的な場所である。横9間45.8m、奥行き5間24.9m、高さ24.8mという。前櫓は、浮彫がある10本の石柱(高さ6m、直径0.8m)で支えられている。浮彫は2匹の竜が向かい合う姿で、中央の祭壇には孔子座像が祀られていた。 扁額「生民未有」(生民は持っていないという意味)は清の雍正帝が書いたという。
大成殿の前柱10本には、竜が彫り上げられた竜柱で支えられていた。
左側の5本 
右側の5柱
寝殿は孔子夫人を祀る所として、宋の天キ2年(1018年)の建立され、清の雍正8年(1734年)に再建されたという。幅7間33.77m、奥行き4間17.86m、高さ22mである。大成殿をやや小さくしたような建物である。
孔子夫人の寝所
 寝殿内部、中央に孔子夫人を祀る祭壇が据えられていた。厨子の中に「至聖先師夫人神位」と刻まれ牌位(日本でいう位牌)が祀られていた。後漢時代から儒教の葬礼に用いられる神主といわれるものか。
孔子夫人を祀る祭壇
この後、昼飯を食べるため外へ出た。門前の食堂で饂飩を食べてから、孔子の旧宅跡という孔府を見学したが、感心させられるものはなかった。
タクシーで曲阜東駅に戻り、南京行き16:20発の列車G43号を待った。
駅正面

改札前の待合風景
ガランとしたホーム
和諧号43G号

2019年6月29日土曜日

中国一人旅その1(34) 6月12日(月) 孔廟(1)

曲阜(Qufu)には、「孔廟、孔林、孔府」(三孔)という尊孔崇儒の遺産が世界遺産として保護されている。
 6月12日(月)朝8:45北京南駅を発車した和諧号(G111)は、10:49すぎ曲阜東駅に到着した。コンコースで手荷物預かり処を探し何とか見つけられたので預けてからタクシーに乗った。整備された道路を走り着いたところが曲阜城の南正門前で、「萬仞宮牆」という文字がが刻まれていた。この文字は論語の一節よりとられていて、「学問を収めるのに近道は無い、真面目に学ぶのみ」という意味だそうだ。
 孔子(紀元前551-479年)の故郷といえるこの地に建立された建築物群、三孔の孔廟=学問所、孔林=墓所、孔府=旧宅のうち、孔廟と孔府の見学にとどめ、孔林には行かなかった。
曲阜城南正門 「萬仞宮牆」
南正門をくぐると、北に向かって一直線に廟前の5坊や廟内の5門をはじめ、閣、殿と呼ばれる建築物が並んでいて、南北の全長は1300m、主体の長さは650mという。

5坊の最初は金聲玉振坊である。「金聲玉振」は、孟子の万章下「孔子聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者。金聲玉振之也。」から取った言葉だそうだ。4本の柱の頭には朝天吼(ちょうてんこう)という一角獣が彫られているという。集大成の後の「金聲玉振之也」はちょっとわかりにくいが、「始まりと終わりの整っているさま」といい、「才知や人徳が調和して、よく備わっているたとえ」とも。孟子が孔子の人格を賛美した語ということだ。
金聲玉振 明の嘉靖17年(1538)建立
先へ進むと、靈星門である。高さは10.34m。当初は木造りであったが、清の乾隆19年(1754)に石造りとなったそうだ。
靈星門 明の永楽13年(1415)建立 手前は羊水橋
太和元氣坊は明の嘉靖23年(1544)に建てられた。「太和」は天地を指し、日月、陰陽ともに和となうという。「元氣」は宇宙の自然の気、儒家思想において世界万物の原始の本をたとえて言うことだそうだ。
太和元気坊
先(北方向)に進むと、至聖廟と篆刻された坊門があった。明の弘治13年(1500)に建てられ、当時は宣聖廟と呼ばれていたそうたが、清の雍正7年(1500)の改修時に改名されたという。
至聖廟坊

2019年6月8日土曜日

中国一人旅その1(33) 6月12日(月) 午前 北京南駅から曲阜東駅 孔府、孔廟


地下鉄4号線宣武門駅から3駅目、北京南駅に10分足らずで着いた。折から通勤時間帯で、週明けの月曜日でもあり、地下から地上までエスカレーターを乗り継いでコンコースまで多くの人の波が続いていた。乗車したのは、〇〇、上海行きだった
発車到着案内板
和諧号〇〇

車中



中国一人旅その1(32) 6月11日(日)夜 北京京劇、北京梨園劇場

開園時間19:30より早く着いたので、ホテル前の食堂で軽い夕食を摂ってから劇場に入った。
舞台の下手でスポットライトを浴びた老俳優が、この後務める演目での隈取り(化粧?)の様子を見せていた。
舞台
 演技


剣士と姫
 フィナーレ
フィナーレ
公演が終わり、最寄りのバス停車からバスに乗った。宣武門で降り、ホテルに戻った。荷物を片付け、明日の移動(曲阜~南京)に備えた。曲阜では孔子に因む歴史の跡を訪ね、その後南京に入る、都市間の移動は、いずれも高速鉄道「和諧号」を予約してある。

2019年6月5日水曜日

中国一人旅その1(31) 6月11日(日)午後 天壇、祈年殿、皇乾殿

前日は閉門されていた祈年門を通り、豊穣を祈るための祈年殿に向かった中央の扉は、天の神「皇天上帝」が通り、皇帝は右(東)の扉を、百官は左(西)の扉を通ったという。最初の門は明の早い時期に建立されたそうだ。
祈年門
祈年殿を囲むように築かれた東壁に沿って燔柴炉があった。天の神を暖かく迎える儀式で、削られた子牛が入れられ末の小枝や葦が燃やされたという。
燔柴炉(ばんさいろ)
燎炉(りょうろ)
祈年殿 最初に建立されたのは明の永楽18年(1420)、大祀殿という。1階建て、矩形の大殿だったそうだ。嘉靖24年(1545)に3層と改築され、上層から青、中層木黄、下層緑色に塗り分けられ、大享殿に改称された。さらに清の乾隆16年(1751)に改修、藍色の瓦に吹き替えられに、名称も祈年殿と定まったという。高さ38.2m、直径24.2m。
祈年殿(南面)
祈年殿
祈年殿の祭壇 「皇天上帝」の位牌
祈年殿の天井画
皇乾殿 祈年殿の北側に、明の永楽18年(1420)に建てられた「天庫」であった。後に清の嘉靖24年(1545)に改築され、皇乾殿と改名されたという。扁額は同帝の筆だそうだ。
ここで、春の祈谷壇で神位を奉祀する祭典が行われたという。
皇乾殿
中央の石壇に「皇天上帝」の神位が祀られていた。
中央の石壇に「皇天上帝」の神位
右(東)側の4つの石壇に、北(奥)から南(手前)へ清の第1代太祖天命帝,3代順治帝,5代雍正帝,7代嘉慶帝の皇帝位牌が祀られているという。
左(西)側の祭壇
左(西)側の石壇に、北(奥)から南(手前)へ清の第2代太宗崇徳帝,4代康熙帝,6代乾隆帝,8代道光帝の皇帝位牌が祀られているという。
右(東)側の祭壇
丹陛石雕 祈年殿は3層の石壇のうえに建立されているが、南北をはじめ8つの階段が設置されていて、次の写真は北側中央の階段である。階段の中央部は、山海の双龍と山海の双鳳が彫られている。
説明を追加
古希門 清の乾隆46年(1781)、皇祈殿の西側にする古希を迎えた,70代以降の官員の歩行距離を短くするため設置されたという。皇帝でこの門を使ったのは乾隆帝だけだそうだ。
古希門
長廊
長老で寛ぐ高齢者
昨日と同じように長廊を通り、東門から外へ出て、今日の3つ目、最後の目的地、北京前門建国飯店に向かった。

2019年5月22日水曜日

中国一人旅その1(30) 6月11日(日)午後 園丘壇から皇穹宇まで

天壇を南から北へ歩く

圜丘(かんきゅう) 明の嘉靖9年(1530)に建立された。毎年冬、この台の上で「祈天大典」(冬至、豊作を祈る儀式)が挙行されるという。当初は1段だったものが、清の乾隆14年(1749)に拡建され、3段になった。俗称「祭天台」、各段を取り囲む石の欄干や階段は9と9の倍数となっていることから「九重天」とも言うそうだ。
圜丘(壇)
園丘壇から北方向を望む
皇穹宇(こうきゅうう)は、明の嘉靖9年(1530)に建立され、清の乾隆17年(1752)に改建され、今日に至っている。当初の名は「泰神殿」といい、嘉靖17年に改称された。高さ19.5m、直径15.6m。古代建築の傑作とされている。祭事に円丘壇に置かれる天の神や皇帝の位牌が安置されているそうだ。

回音壁(かいおんへき)は皇穹宇の北側を囲む円形の壁で、壁に近づいて囁くと60mくらい離れた180度反対側でその声が聞こえるというが、一人では確かめようがなかった。
皇穹宇 奥が回音壁
皇穹宇 天井の見事な絵模様
皇穹宇 正面の祭壇「皇天上帝」
「皇天上帝」は天の神、天上にある、万物の主宰者、天空を支配する神という。ここにはこの神を祭っている。儒学的な君主概念による称号で、正式には皇帝というそうだ。 
皇穹宇の後(北)側 下部は回音壁
成貞門 中央奥に祈年門、祈年殿が見える

圜丘壇には「円心石」、皇穹宇の階段前には「三音石」といわれる、音に因む石があったそうだが、見ることはなく、前日も通った成貞門をくぐり神道を北へ進んだ。