2017年5月26日金曜日

独仏伊一人旅(33) 6月2日(木)午前 ノルマンディ上陸地を訪ねる(1) カーン・メモリアル

1944年6月6日(D.Dayと言われる)、連合軍がドイツ占領下のノルマンディ上陸作戦Invasion of Normandy(正式にはネプチューン作戦Operation Neptune)を敢行した。
その日から72年経った6月2日、この地を巡る「連合軍上陸海岸とノルマンディ平和博物館日帰りツアー」に参加するため、6時に起床、指示された集合場所へ歩いて行った。7時過ぎ、大型バスは出発した。ガイドが話す言葉は英語、説明資料はなかったため、現地についてから入手したガイドブックや地図を見ながら、見学した。

10時すぎ、最初に着いたのは、カーン平和博物館Memorial de Caenだった。
記念館の展示は、1918年から1970年まで、対独戦争を中心に、大量殺戮や大戦後の東西対立、大衆消費社会の様相など多岐に渡っていた。これらを12時半過ぎまで、昼食をはさんで見学した。
カーン平和博物館
巨大なモニュメント
上陸地の情景 アメリカ軍の上陸地
米軍上陸地Omaha 6:30、Utah 6:30
上陸地の情景 イギリス軍とカナダ軍の上陸地
英軍条上陸地Sword 7:30 加軍上陸地Juno 8:00 
軍装や兵器等





日本兵に関する展示があった。Genocides et violences de masse集団虐殺とマス暴力をテーマとするコーナーでのことだ。出征兵士の武運長久を祈る寄せ書きと幟である。このほか、軍刀や虐殺の現場を撮ったと思われる写真が展示されていた。

再び、ツアーバスに乗って、いよいよアメリカ軍の上陸地Omaha Beachへ向かった。

2017年5月14日日曜日

独仏伊一人旅(32) 6月1日(水)夜 オペラ・ガル二エ King Lear

パリへ戻る列車に乗ったところ満員でしばらく立っていたが、席が空いたので座った途端に眠ってしまった。途中乗り換えるInvalides駅を通り過ぎ、結局、パリ市の南西部を一周してヴェルサイユChantiers駅に戻ってきた。次の列車までの待ち時間を合わせると1時間半以上を無駄にしてしまった。
Versailles Chantiers駅
メトロ・オペラ駅に着いたのは8時前、一旦ホテルに戻り着替えてからオペラ・ガル二エに向かった。お客の姿はなく、すでに入場済だった。案内の男に導かれて4階に上り、席についた。

上演されていたのは「リア王King Lear」。このタイトルに興味を引かれてチケットを入手した。シェークスピアの良く知られたこの悲劇は、1605年下半期から1606年の間にドラマとして初演されたというが、オペラとして作曲されたのは、1978年、アリベルト・ライマンによってで、非常に新しいことが分かった。従って、古典風ではなく、現代風に作られていた。

ドイツ語の上演であったためか、舞台上部にフランス語と英語の字幕が映されていた。恥ずかしいことながら、ストーリーがどのように進んでいるか、いま何の歌が歌われ、演じられているのかさっぱりわからないまま、激しい言葉と演技の展開、オーケストラの演奏に目と耳が引き付けられた。

場内風景
幕間の場内(1)
幕間の風景(2)
天井画「夢の花束」は、1964年、シャガールは時の文化大臣アンドレ・マルローの依頼を受けて製作したもので、オペラ座が完成してから89年後のことだという。絵が5つの色(赤、白、緑、青、黄)に分けられ、14人の音楽家とオペラ・バレー作品、パリの風景が描かれ、さらに、中央内側の小さい円のなかにも4人の作曲家とその作品が描かれているそうだ。
天井画「夢の花束」シャガール 1964年
主演した男性歌手は、レイア王がバリトンのほか、バリトンバス、テノール、カウンタテノール、女性歌手は3人ともソプラノで、11人の衣装をみればわかるように、全く現代風オペラであった。リア王に扮したバリトンは、ボー・スコバスBo Skovhus(54歳)、デンマーク人だそうだ。

外へ出ると、雨が降っていた。遅い夕食をパリ初日に入ったレストランで食べてから、ホテルに戻った。今夜は、ヴェルサイユ宮殿と庭園での歩き疲れで、早く眠れそうだ。明日は、パリ最後の日、ノルマンディ上陸海岸を訪ねる予定、天気の回復を祈った。

2017年5月8日月曜日

独仏伊一人旅(31) 6月1日(水)ヴェルサイユ宮殿(6)マリーアントワネットの村里

小トリアノンの入場チケットを購入したものの、滞在できる時間から内部の観覧はせず、「王妃の村里」へ向かった。
「王妃の村里」から見た小トリアノン 1763-68年
【余談】この宮殿は、「王の寵姫ではなくなった後も友人であり続けたポンパドール侯爵夫人が、《王の退屈しのぎ》のために率先して計画し」、1763年から1768年にかけて建設されたが、完成時には夫人は亡くなっていたそうだ。
1774年、ルイ16世は、妻のマリーアントワネットにトリアノンの領地を与え、宮廷から離れた生活を送れるようにしたという。

愛の殿堂
1778年、ㇼシャール・ミックによって建てられた「愛の殿堂」は、小トリアノンの寝室から眺められるすべて大理石の建物で、中心に「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」像が置かれていた。
愛の殿堂 Le Temple de l'Amour 
【余談1】中央の彫刻「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」をめぐる話。この彫刻は、ルイ・フィリップ・ムーシーという彫刻家が作ったけれども、エドム・ブーシャルドンという別の彫刻家が作った同名の傑作(のコピーだそうで、その原型は、ルーブル美術館にあるという。二人はともにフランス彫刻界で認められた人だ。
どうしてこういうことになったのか、その理由は原型のキューピッドの姿に問題があって、ポンパドール侯爵夫人は賞賛したけれども、1750年宮殿に置かれたときは反対の声が強かったというのだ。
【余談2】愛の殿堂をめぐる悲恋のエピソード。マリーアントワネットは、ここで、スウェーデン貴族フェルセン伯爵(1755.9.4-1810.6.20)と逢瀬の時を持ったという。よく知られた「ベルサイユのばら」のモデルである。

目指した王妃の家は、改修工事中で、家全体が仮設足場で囲まれていたため、展示のパネルで全体像を掴むほかなかった。
足場に囲われた王妃の家
王妃の家はこじんまりとしたつくりであることがわかる。
王妃の家(パネル)
王妃の村里には、王妃の家のほか、農家が数軒保存されていた。1783-1784年に建てられ、農夫が住まわせられ、農場で耕作をしていた。大きな建物から小さな建物、崩壊した跡地、ブドウ畑、アヒルやハトを飼育している建物など、ベルサイユ庭園とは全く異なった風景が見られた。ノルマンジーの農村を再現したのだそうだ。








池の畔に「マールボロの塔」と名付けられた見晴らし塔があった。あるブログによれば、「当時のフランスの農民の間で、流行っていた有名な歌の中でイギリスの将軍、初代マールボロ侯爵ジョン・チャーチルから来ている」という。あのチャーチル首相の先祖である。
マールボロの塔
村里を出て、小トリアノン前から遊覧用ミニトレインに乗ってベルサイユ宮殿へ戻り、そして、駅へ向かった。