2017年10月24日火曜日

独仏伊一人旅(48) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂(1)クーポラの展望台から 

サンピエトロ大聖堂

(1)バチカン宮殿への大扉

大聖堂に向かう途中で見た、17世紀に造られたブロンズ製の大扉である。長い槍を持った衛兵が守備していた。
バチカン宮殿への大扉
【余談】衛兵はスイス人の傭兵だそうで、創設は1506年、ユリウス5世の時代という。制服の色、青・黄・赤はメディチ家の色だとか。

(2)クーポラCupola(ドーム)の展望台から

大勢の人が大聖堂に入っていた。案内表示に従って大聖堂の上部へのエレベーターとクーポラの展望台に上るチケット売り場に進み、購入した(8€)。
上部に着いて周りを回ったのち、いよいよ階段を上り始めた。何段あるのか(320段とか)、だんだん狭くなり、最後にはまっすぐ立てず壁に手をつきながら黙々と上った。
歩廊を回りながらローマ市内を遮るものもなく一望することができた。
前方中央の通りが巡礼者が大聖堂を目指して進んでくるコンチリアツォーネ通りという。その先にテベレ川が見えた。右手はるか前方にはコロセウムも見たように思う。

クーポラの展望台から眺望
歩廊を北方向に回ると、先ほどまで見学していたバチカン美術館の全景が見えた。右下に半分ほどだがシスティーナ礼拝堂の屋根が見えた。中央前方には、ピィーニャの中庭も見えた。中央に見えるのは入らなかったけれどもベルヴェデーレの中庭だ。
バチカン美術館
西方向を見ると、法王庁の建物が見下ろすようなところにあった。西日を背に受けてやや暗い感じがしたが、緑の庭園にあってバチカン市国政庁でありカソリック教会総本山ともいえる威厳を備えているように見えた。
法王庁
清々しい気分になって、クーポラの階段を降り、エレベータで地上に戻り、堂内を見学した。

2017年10月17日火曜日

独仏伊一人旅(47) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂へ移動する道すがら 

外へ出て見ると、朝来た城壁沿いの歩道には美術館に向かう長蛇の人の列が並んでいた。その人たちと逆行するように、サン・ピエトロ大聖堂へ向かって歩きながら昼飯が食べられるカフェは探した。教皇庁への入り口サンタンナ門の前で、ボルゴ・ピオ通り Borgo pioに左折してすぐ右側にカフェ・ サンタンナCaffe' Sant' Annaがあった。

料理とアメリカンを注文して待っていると出てきた料理がこれだ。何という名前だったか忘れたが、レシートを見ると12.5€だった。空腹だったから骨を残すだけですっかり食べた。
何という料理?
さて、テーブルの隅にあったつま楊枝の入れ物に、”OSAKA”と印刷されたラベルが貼ってあって、興味が引かれた。”500 Stuzzicadenti/ Extrafini ”は辞典によれば「500本のつま楊枝/ 極細」ということらしい。しかも両端が細く削られていた。
つま楊枝 ”OSAKA”
食べ終わりしばらく休んでから、大聖堂に向かった。

2017年10月15日日曜日

独仏伊一人旅(46) 6月4日(土)午後 バチカン美術館(7)インマコラータ(無原罪の処女マリア)の間、ラファエロの間、システィーナ礼拝堂

8.インマコラータの間 Sala dell'Immacolata

部屋の中央、壁寄りに無原罪の処女マリアの像が人々を見下ろしているように見えた。4面の大きなフレスコ画は、「1854年12月8日にマリアの無原罪の御宿りの教理が布告されたことを記念して、教皇ピウス9世に依頼された画家フランチェスコ・ボデスティにより、1858年に装飾された」という。
無原罪の処女マリア
9.ラファエロの間 Stanze di Taffaell

インマコラータの間の先がラファエロの間であった。4つの部屋を、教皇ユリウス2世の依頼を受けたラファエロとその弟子たちが1508年から1524年までにフレスコ画で装飾したそうだ。署名の間が最初で1508‐1511年と言い、ヘリオドスの間、ボルゴの火災の間、最後がコンスタンティヌスの間である。

コンスタンティヌスの部屋のフレスコ画は、「ラファエロの死後(1520年)、彼の下絵に基づき、弟子たちによってフレスコ画が装飾された」という。その中の2点を紹介したい。

(1)ミルウィウス橋の戦い Battaglia di Ponte Milvio

この戦いは、312年10月28日、2人の皇帝コンスタンティヌス1世とマクセンティウスが率いる軍の間で争われたいわば天下分け目の戦争である。激しい戦いの末、前者が勝利を勝ち、「ローマ帝国の西半分」を支配することになった(西方西帝というそうだ)。
ミルウィウス橋の戦い ジュリオ・ロマーノ
【余談】ミルウィウス(ミルヴィオ)橋はローマ北郊にあり、テヴェレ川にかかる重要な橋の一つ、フラミニア街道が通っている。

(2)コンスタンティヌス帝の洗礼

もう一つが、これである。コンスタンティヌス1世の在位は、西正帝として312‐324年、全ローマ皇帝として324-337年という。313年ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認した。かくてキリスト教の今日にいたる政治的社会的基盤を用意したことになった。
コンスタンティヌス帝の洗礼
【余談】ミラノ勅令は、312年2月にコンスタンティヌス帝(西方正帝)とリキ二ウス手帝(東方正帝)とミラノで会見した際に発っせられたとされ、キリスト教の信教の自由を認めた(全帝国市民の信教の自由を保障したとされる)。

10.現代美術コレクション Collzione Arte Religiosa Contemporanea

システィーナ礼拝堂に進んだつもりだったが、その入り口近くで、これまでとは全く異なる絵画をみることになった。ここには、バチカン美術館が保有する約700点の絵画、グラフィックアート、彫刻が含まれるコレクションの一部が展示されていた。

Pieta Rouge 赤いピエタ
Pieta rouge  赤いピエタ マルク・シャガール 1956年
【余談】ピエタは、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのち十字架から降ろされたイエス・キリストとその亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことを言うそうだ。

11.システィーナ礼拝堂 La Cappella Sistina

漸くたどり着いた。2時を過ぎていた。内部の装飾は、「宗教絵画のシリーズで最も複雑なものの一つ」ということだが、大勢の人々が行き交うなかで壁面と天井を埋め尽くす絵をただ眺めるばかりであった。
写真を撮ることができなかった。代わって、バチカン美術館公式サイトからシスティーナ礼拝堂をゆっくりご覧いただきたい。

2,30分くらい居たか、思いを決して出口に向かった。ショップで家族への土産品としてメモ帳を買ってからよく知られた渦巻形のスロープを下って外へ出た。

※バチカン美術館編は、ショップで購入した図録「ヴァティカン」(日本語版)その他の記載によった。