2018年9月9日日曜日

中国一人旅その1(10) 6月8日(木) 9.18歴史博物館を見る 江沢民 苦難・奮起

展示室は、国民に対する教育施設として一定のカリキュラムに基づいて構成されているようであったが、進行に沿って見て写真を撮ったジオラマを中心に紹介したい。

張作霖爆殺事件(満州某重大事件とも、中國では皇姑屯事件とも)が発生したのは、1928年(昭和3年)6月4日で、その3年後に柳条湖事変が勃発している。関東軍が主導したとされ、この後に続く日中戦争(14年戦争)の先駆けとなった。上の満鉄連長線と下の京奉線が立体交差する地点で、張作霖は京奉線をゆっくり走る特別列車に乗っていたという。
張作霖爆殺現場
蒋介石が張学良に訓令する場面のジオラマがあった。
説明文には、1931年9月12日(柳条湖事件の6日前)、石家荘に停車中の列車内で、蒋介石は張学良に対し、「日本軍の進撃に遭遇した場合は、『一切抵抗せず』、代わりに国際連盟に提訴し、平和解決を図るよう訓令した。」という。
蒋介石が張学良に訓令
北大営がジオラマで展示されていた。
柳条湖事件の舞台となった南満州鉄道と北大営
北大営を巡る戦闘図(パネル)を見ると、爆破地点は鉄道線路の西南側に✖で示されている。数字で双方の部隊(関東軍は4中隊)が行動している。の進行方向が表されていて、中国軍は翌19日朝には、東方向へ退却したことがわかる。
北大営戦闘図 青色:中軍 黄色:日軍
梁成竜、金日成が率いていた「汪清遊撃隊」が「討伐隊」(日満軍)を待ち伏せている情景を表している(1933年3月、※汪清は延辺朝鮮自治州汪清県のことか)。
汪清遊撃隊の待ち伏せ 右小高いところで金日成が指揮
説明文(日本語)は「抗日連合軍の」と題し、雪が積もった林の中で『東北抗日連合軍の戦士が「焚き火は胸元を暖めるが、背中を寒風が吹き抜ける」という厳しい環境に耐え抜き、日本軍との長期間、粘り強く、辛苦に耐え、想像を絶する戦いぶりを再現した。』と紹介していた。兵士たちは赤く燃える焚き火を囲んで、若い男(中央右寄り)が奏でる一弦琴(?)の音色に耳を傾けている、安らかな風景のように見えた。
雪が積もった林の中の風景
展示を見終わり出口に向かっていると、次のような3か国語の掲示(結束語、Concluding remarks、まとめ)があった。
掲示板
長文だが以下に紹介しておこう(私の写真ではよく読みとれないので、別の方のブログ「秋の中国東北」2006.09.10から転載)

私たちが展示館を出て行こうとする今、恐らく、人々のそれぞれの心のなかに、血が垂れているであろう。一滴一滴の血が一つ一つの疑問符となって凝固しているに違いない。
日本帝国主義はなぜ敢えて偉大な我が中国に向けて凶刃を振り上げたのか。ここに展示されたそれぞれの写真はことごとく確固たる事実であるのに、なぜ、今日に至ってもなお正視できず、ひいては、それを歪曲し、改ざんしようとする者がいるのか。「落後すれば殴られる」では我が人民はどうして立ち遅れることになったのか。ここに展示されている犠牲者の写真は叫んでいる。
この叫びは我々に「英雄を忘れたら、民族は堕落の国となる」、「苦難を忘れたら、苦難は再び国の門を叩く」、「先ず自分から始めよう、今から始めよう」、「中華を振興することはすべての人民の責任だ」と呼びかけ、教えている。』
【余談】私が撮った写真の文章と少々異なっているところがあることから、展示内容の見直しが行われているようだ。


外へ出て、東側の外壁に沿って歩いていると長大な彫塑が続いていた。題して『奮起』という。説明文によれば、『四つの部分からなる彫塑全体は中華民族の抗争、昂揚、勝利の精神を象徴し、かつそれぞれ次の場面を再現している。』
1.東北義勇軍の奮起
2.愛国学生が燎原の火を転嫁
3.軍民が新しい長城を築き上げる
4.戦争の勝利
時計をみると2時近く、予定時間をオーバーしていた。バス停から、つぎの目的地、『瀋陽故宮」に向かった。


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