2015年9月25日金曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(16) 5月29日(金)夕刻、博物館島からポツダム広場へ(1)

 博物館を出た頃には、5時近くになっていました。通りかかりの屋台店で買ったコーラを飲みながら、旧博物館の横を歩いているとベルリン大聖堂Berliner Domの前に至りました。

 大聖堂前の公園Lustgartenでベンチに腰掛け、壮麗な大聖堂を眺めたり写真を撮ったりして、しばらく身体を休めました。教会内部や夕方のミサの様子なども見たいという思いがありましたが、歩き疲れと次の目的地へ行く時間の制約もあり、とても入れる状態ではありませんでした。

ベルリン大聖堂入り口
 Berliner Dom
【余談】 大聖堂の高さは114m、ドームが仰ぎ見るように見られました。脇の階段を270段上ると、ベルリン中央部を一望できる展望台に行けるそうです。

 さて、カールリープクネヒト通りに出て、西方向に歩き始めました。シュプリー川を渡ると、ブランデンブルグにつながるウンターリンデン通りと名前が変わりましたが、この非常に幅の広い通りの歩道をしばらく歩くと、学生らしい若者が出入りしている門に気づきました。フンボルト大学ベルリンの門です。
フンボルト大学ベルリン
【余談】 この大学は、プロイセン王国のフリードリッヒ・ヴィルヘルム3世の時代、1810年、ナポレオン戦争後の国家の危機を打開しようとする、教育の近代化の一環として、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学として創立された歴史を持っています。
 第2次世界大戦後、フンボルト大学と改称、さらに、東西統一後、現在の名称になったということです。

2015年9月19日土曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(15) 5月29日(金)午後 ペルガモン博物館(4) イスラムの祭壇


 次に紹介したいのは、祈りの場所the Prayer niche(mihrabミフラーブ)と言われるものです。

 左側は、イランのカーシャーンKashanにあったthe Maiden Mosqueに由来するものだそうで、1226年の日付があり、イスラム石ペースト、光沢のある装飾、青とトルコ石のガラスなどを使って描かれています。高さ2.8m。

 右側は、トルコのコンヤKonya(中央アナトリア地方の都市)にあったthe Beyhekim Mosqueに由来する14世紀後期ごろのもので、全体が青色を基調として陶製モザイクで表現されています。イスラムの書法による装飾的な文字、様々な花とつたの模様が鮮やかでした。高さ3.95m、横幅2.8m。
Prayer niche from the Maiden Mosque 1226年
Prayer niche from the Beyhekim Mosque 14世紀
【余談】 仏教のお寺には仏像が安置され、その仏像に向かって、お経を唱えたり、願い事をしますが、偶像を崇拝することが禁じられているイスラム教のモスクには、これらのミフラーブが設けられていたことがわかりました。いずれも聖地メッカに向かって礼拝する位置に設置されていたということです。アラビア文字の書道と言い、1000年からの歴史を持っています。数年前、東京ビッグサイトで開かれていた国際ブックフェアにおいて、その書道家が描くところを見たことが思い出されました。

 最後に、もう一つ紹介したいものがこれです。図録によれば、14世紀の早い時期にグラナダのアルハンブラ宮殿にあったもので、西洋杉とポプラに様々文様が彫り込まれ、また、部分的に描かれているそうです。見上げるとその技法の巧みさに驚ろかされます。1.90×3.55×3.55m。
アルハンブラ宮殿に由来するドーム型天井 
【余談】 この天井は、19世紀にドイツの銀行家がスペイン王室からアルハンブラ宮殿の様々なもの取得し所蔵していたなかから、”the Torre de las Damas"をグラナダ市へ寄贈した時に、それと引き換えに贈られたものとか。1978年、銀行家の一族のコレクションから、博物館に帰属したという歴史があります。ともあれ、非常に豪奢な感じがしました。

※図録 2012年第2版(英語版)@Prestel Verlag 9.95€

2015年9月12日土曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(14) 5月29日(金)午後 ペルガモン博物館(3) ムシャッタ宮殿の外壁

 2フロア(3階)には、古代イスラム芸術品が地域、王朝に分けて展示されていました。図録によれば、1904年に開館したフレデリック皇帝博物館(現ボーデ博物館)のイスラム芸術部門として建設され、オスマン帝国アブデュルハミト2世Abdul Hamid Ⅱ(1842-1918、在位1876-1909)から寄贈されたムシャッタ宮殿の正面入り口の遺構を始め、様々な収蔵品が展示されていたなかから印象に残ったものをいくつか紹介します。

 まず、ムシャッタ宮殿の正面入り口(左側部分)の遺構です。
ムシャッタ宮殿正面入り口(左側)の遺構
図録には、1903年にベルリンへ運ばれてきたこの遺構は、8世紀、ウマイヤ朝によってシリヤ-ヨルダン砂漠に、多機能で一時的な住居(離宮)として建設されたと記されています。

 また、ウィキペディアの記事によれば、外壁の左側と右側では、三角模様の中に描かれているものが異なるそうです。博物館では気づきませんでした。左側には、鳥や獅子、ケンタウルス(半人半獣の生き物)が描かれているのに対し、右側にはブドウの葉やツルだけが描かれているということです。

説明をムシャッタ宮殿正面入り口(右側)の遺構
【余談】 この外壁をベルリンに寄贈したオスマン帝国アブデュルハミト2世が即位した翌年1877年に、ロシヤとの戦争(露土戦争)に敗れています。また、国内の政治情勢は立憲制と皇帝専制との間で非常に揺れていたようです。ベルリンへの寄贈もこうした政治・外交情勢の動向と何らかの関わりがあったのではないかと推測されますが、真実はどうなのでしょうか。

2015年9月6日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(13) 5月29日(金)午後 ペルガモン博物館(2) 古代中近東・・・アッシリアの世界を歩く

 ミレトスの市場門を通り抜け、復元された古代バビロンのイシュタール門the Ishtar Gateから古代中近東の世界に入りました。

 バビロンは、メソポタミア(現イラク)の古代都市です。その4つの城壁の一つイシュタール門から王宮に至る行列の道the Processional Wayを通りました。両側には、まるでモザイクのように、彩色レンガで獅子(イシュタール女神の象徴という。)の行進が描かれていました。
復元されたバビロンthe Processional Way
【余談】 バビロンでは行列の道は、おおよそ半マイル800m続いていたと言われています。それにしても、先の大戦によって大きな被害を被った遺跡の構造物を復元する作業は途方もなく困難だったと思いました。

 古代中近東のフロアで、目についたものの一つは、アッシリア王宮の部屋の扉で守護する役目を持った2体の像です。Lamassuと言われ、体はライオン、4本の脚、大きな翼、頭部は人間という不思議な半人半獣像でした。

 図録には、アシュールナツィルパル2世王King Ashurnasirpal Ⅱ(883-859BC)が在世のころのものと記されていました。
復元されたアッシリア宮殿内の部屋の扉を守護する像
【余談】 Lamassu守護像は、他の土地にもあったようです。そう言えば、どこか別の博物館で見たことがあるような感じがしましたが、帰国後調べてみると、大英博物館にもあったそうです。

 扉の先に目を向けると、四角形の大きな塊のようなものが見えました。守護ライオンの間を通り抜け、隣の部屋に入ると、それは大きな水槽あるいは水盤Water Basinでした。
Water Basin Sennacherib王(Bc.704-681DC)
図録によれば、この水槽は、アッシリアのセンナケリブ王King Sennacherib(704-681BC)のために巨大な玄武岩の塊から作られたもので、その周りは神官の取り囲まれています。そして、神官たちは、水を失わないように、魚の鱗を付けたローブをまとっているのです。

 この後、2フロアへ向かいました。そこには、古代のイスラム美術品が展示されていました。