2016年5月26日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(55) 6月7日(日)午前 レジデンツからイギリス庭園へ 

ミュンヘン最後の日、帰国便が夕方なので、3時ごろまで市内の代表的なところを観光しておこうと考えました。7時過ぎに起き、前夜の支度を再度確認したのち、朝食を食べに行きました。周りを見渡すと、老人の一人旅らしき人は見当たりませんでした。やはり、高齢者が殆どでした。

9時前、チェックアウトと同時に、スーツケースを預けてから、レジデンツResidence Museumを目指しました。

レジデンツは、Wittelsbach familyヴィッテルスバッハ王家(ドイツを始めヨーロッパ各地を統治した王家。11世紀に始まり、1918年11月7日に廃された。)の宮殿でした。1385年、ステファン3世の治世に建設が始まり、以後代々で増改築が繰り返されてきたそうですが、1918年に王が退位してまもなく博物館として公開されています。

ミュンヘンに着いた日にオペラを鑑賞した歌劇場と同じ広場に面していましたので、迷うことなくレジデンツに至りましたが、レジデンツ通りResidenz str.側にある入り口に辿り着くまで少しうろうろしました。

入場券売り場でチケットを6€で買い、館内案内(英語版)をもらいました。クロークに荷物を預けて、案内を頼りに見学の旅が出かけました。案内には、各部屋に1からの番号がふられていて、1Cash Deskから始まりました。

(1)Antiquarium(Ground floor room 7)

16世紀後半、Herzog Albrecht V.(在位1550‐1579年)の時代に遡り、当時収集されたAntiquesが展示されているということですが、立ち入り禁止のためそれらをつぶさに見ることはできませんでした。この部屋は長く、66mあるそうで、奥の方がよく見えません。
Antiquarium考古
(2)Ancestral Gallery (Ground floor room 4)

王家代々の100人を超える肖像画が飾られたギャラリーです。Karl Albrecht Ⅶ(在位1726-1745年)の時代に始まるらしいです。これだけ数が多いと一つひとつ見ていくのは大変だなと思いながら通り過ぎた感じです。


(3)Porcelain Cabinet (Ground floor room 5)

壁面のキャビネットに様々な磁器が飾られていました。この部屋も中に入れず、つぶさに見ることができませんでした。陶磁器について、後で中国渡来の陶磁器を展示している部屋があり、近くで見ることができました。
Porcelain Cabinet
(4)Imperial Hall(Upper floor room111)

2階に上って、入った部屋がここです。
Imperial Hall 1/2
Imperial Hall 2/2
(5)Green Gallery(Upper floor room58)
Gleen gallery
(6)Court Chapel(room 89,96)

Upper floorの96室から見おろすような恰好で写した教会
Court Chapel
(7)キュビリエ劇場Cuvilles Theater(1751-1755年)

18世紀の半ばに建設されたいうことです。場内での写真を撮ることは禁じられていましたので、Parkett平土間への入り口から内部を撮りました。
キュビリエ劇場 入り口

(8)3つの中庭

パンフレットを見ると、レジデンツ博物館には8つの中庭があり、そのうちの3か所を紹介します。
Chapel Courtyard
Fountain Courtyard
Imperial Courtyard
(9)Herkules Hallの入り口

レジデンツ博物館の北側、ホッフガーデンの面した建物の外観は、これまで見てきたレジデンツ博物館の趣とは非常に異なっていました。このホールでは、バイエルン放送局交響楽団の演奏会を始めコンサートや演劇などの会場として利用されているそうです。
Herkules Hallヘルクレス ホール
(10)バイエルン州首相府Staatskanzlei

不思議な形をしているのは、戦災で被害を受け修復されたためで、中央のドームは、1905年に建てられたバイエルン軍事博物館のものだったそうです。

Staatskanzlei
(11)イギリス庭園内の茶室「閑松庵」KanShoAn

1972年、日本庭園に裏千家が建てて寄贈した茶室で、40年余の歴史があります。茶会が4月から10月まで毎月2回開かれ、1000人ほどの人が茶を楽しんでいるそうです。
KanShoAn 茶室の佇まい
Kanshoan 入り口 戸の先に橋がある
【余談】 イギリス庭園には、イーザル川に端を発する川がいくつか築かれ、日本庭園もその一つシュヴァビンガー川Shuwabinger Bachの中州に作られているようです。

(12)アイス川で遊ぶ若者たち

アイス川の起点には、人工的に大きな波を作る設備が備えられ、サーファーが両岸から交互に乗り出し、渡り切る人もあれば、途中で流されてしまう人もありました。下流の方へ歩いていくと、水遊びを楽しむ若者の姿が見られました。
若者たち
イギリス庭園は非常に広く(958ha、ニューヨークのセントラルパークより広いということです)、すでに1時間くらい過ぎていましたので、先へ行くことはあきらめて市内へ戻りました。

(13)Field Marshals' Hall

レジデンツ博物館の西隣に位置するオデオン広場Odeons pl.で見た風景。
騎士と2頭のライオンと若者たち
(14)フラウエン教会(聖母教会)Der Munchener Dom

最後に見学したのが、この教会です。簡素な佇まいが印象的でした。
主廊と祭壇
霊廟の壁に描かれた聖母マリア
ホテルに戻って荷物を受け取り、マリエン駅からSバーンでミュンヘン空港へ行きました。同空港から、フランクフルト空港経由で帰国しました。

長い旅日記をお読みくださいましたことにお礼を申します。文中の誤りに気づかれましたお許し願います。

2016年5月8日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(54) 6月6日(土) ドイツ博物館を見学し、その後の夕食に寿司を食べる  

ミュンヘンへ戻り、イーザルトーアIsartor駅でSバーンを下り、地上に出ました。朝食以後何も食べないできたため、空腹でした。手っ取り早くと、ファストフード店でハンバーガーとコーラを買い、店前のベンチに座ってお腹に入れました。食べ終わると、ツヴァイブリュッケン通りZweibrucken str.をドイツ博物館Deutsches Museumを目指して歩きました。イーザルIzar川にかかるルートヴィッヒスLudwigs橋の途中で右手に博物館の建物が見えてきました。

4階建ての堂々とした建物で、入り口で7€(シニア割引き)を支払って入場しました。G,1,2,3階を閉館時間17時まで駆け足でまわりました。一言で感想をいえば、科学と技術の工学系博物館で、そうした面では見ごたえがあると思いました。上野の東京科学博物館、ワシントンのスミソニアン博物館と対比しても決して見劣りしないと思いました。残念なことに、時間が足りないうえにカメラの電池が切れてしまい、見学したところの写真を撮ることができませんでした。


ホテルまで歩くことにして、ここへ来たツヴァイブリュッケン通りを西方向へ進みました。しばらくして、イーザルトーア広場に至りました。そこで見たのが、イーザルトーアです。三つの塔から構成され、中央の塔は最も高く、40mあるということです。13世紀の前半に建立され、現存のものは戦後復元されたもので、ミュンヘン市内に残る最後の城門だそうです。

ホテルに戻り、一休みしました。目が覚めると8時になっていました。夕食を食べに行こうとかねて調べておいた「寿司さの」へ向かいました。途中で道を間違えたりしたため、店に着いたのは8時半を回っていました。酒、つまみになすとニンニクのみそ和えを、そして握りとみそ汁を注文して待っていましたら、酒と和えものがまず出てきました。酒を飲み終わり、寿司を持って来てくれるよう合図をしましたら程なく運ばれてきました。ウエイトレスは、日本人女性のように思われましたが、言葉を交わすことはしませんでした。短冊状のメニューリストに記載された36品から食べたいものにチェックを入れて注文すると、注文した品が運ばれてきました。にぎりは、1又は2、3貫当たり1 ~2€でした。ちなみに最も高い2€のものは、Hamachi、Toro、Ikura、Uniの4種類です。僕は、トロ、マグロ、ホタテ、アナゴ、サケ、サバ、エビ、タイ、鉄火巻を食べました。〆て26.8€(税4.28€込)でした。
夕食のにぎり、なすとにんにくのみそ和え、酒 そして、市街地図
Sushi Sano  Josephspital str.4 Munchen
マリエン広場の市庁舎 9時半近くでしたが、宵のような明るさでした。
帰り道は間違えることもなく、マリエン広場を通りホテルへ戻りました。風呂に入りゆっくり体を休めました。いよいよ、明日は帰国の日です。夕方便のため、午前から午後3時ごろまで市内を観光する予定を確かめたり、荷物を整理したりした後、カメラと携帯電話の充電をセットしてから、ベッドに入りました。

2016年5月2日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(53) 6月6日(土) 午後 ダッハウ収容所(4)

Camp roodと呼ばれる道は、両側に深い緑のポプラの大木が並んでいました。植えられたのは、先の大戦中で、収容者の手によるものだったようです。70余年の間にこのような姿に生長することを知る生存者はどれくらいおられるのでしょうか。突き当りに、記念碑のようなものが見えました(実際は、次に示すようにカソリック教会でした)。
Camp rood
カソリック教会Catholic Mortal Agony of Christ Chapel(1960)
カソリック教会の前を左(西方向)に曲がりました。空堀を越えたところが焼却場エリアと呼ばれ、ガス室を備えた焼却場がありました。案内板には、3つのパネルのうちの中央のパネルのエリアの配置図によれば、焼却場には4つの炉と5つのガス室があったことが示されていました。
中央のパネルに、エリアの配置図
復元されたガス室を備えた焼却場の外観
4つの炉のうち中央の2つの炉
ガス室は、天井に3本の管が取り付けられているなどシャワー室のように偽装されていて、脱衣した収容者が入ると、チクロンBという青酸ガスで死に至らしめられ、別の扉から運び出されたようです。15から20分の間に最大150人のひとが犠牲になったと記されていました。
シャワー室に偽装されたガス室
恐ろしい光景を目にした後のように陰鬱な気分になりましたが、明るい外へ出てほっとしました。鎮魂碑が設置された一角を巡ってから、出口に向かって歩きました。
強い日差しの下を出口に向かって歩く人々
点呼広場にいたり、記念碑を見ました。人と有刺鉄線を象徴的に組み合わせたこの碑は見る者の胸に絶望の悲鳴が響いてくるようでした。
国際記念碑 1968年
慰霊碑 六芒星(ダビテの星)が象徴的に描かれていました
メモリアルサイトの由来を示す銘板
再びこの扉をくぐって、収容所から離れ、バス停に向かいました。726番のバスに乗りダッハウ駅へ行き、Sバーンに乗ってミュンヘンへ引き返しました。
ダッハウ収容所・バス停
【余談】 ダッハウ編を書くに当たり、何度も参照したカタログと案内リーフフレットを紹介して、ダッハウ編を終わることにします。
左:The Dachau Concentration Camp,1933 to 1945 右:リーフレット