2016年5月2日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(53) 6月6日(土) 午後 ダッハウ収容所(4)

Camp roodと呼ばれる道は、両側に深い緑のポプラの大木が並んでいました。植えられたのは、先の大戦中で、収容者の手によるものだったようです。70余年の間にこのような姿に生長することを知る生存者はどれくらいおられるのでしょうか。突き当りに、記念碑のようなものが見えました(実際は、次に示すようにカソリック教会でした)。
Camp rood
カソリック教会Catholic Mortal Agony of Christ Chapel(1960)
カソリック教会の前を左(西方向)に曲がりました。空堀を越えたところが焼却場エリアと呼ばれ、ガス室を備えた焼却場がありました。案内板には、3つのパネルのうちの中央のパネルのエリアの配置図によれば、焼却場には4つの炉と5つのガス室があったことが示されていました。
中央のパネルに、エリアの配置図
復元されたガス室を備えた焼却場の外観
4つの炉のうち中央の2つの炉
ガス室は、天井に3本の管が取り付けられているなどシャワー室のように偽装されていて、脱衣した収容者が入ると、チクロンBという青酸ガスで死に至らしめられ、別の扉から運び出されたようです。15から20分の間に最大150人のひとが犠牲になったと記されていました。
シャワー室に偽装されたガス室
恐ろしい光景を目にした後のように陰鬱な気分になりましたが、明るい外へ出てほっとしました。鎮魂碑が設置された一角を巡ってから、出口に向かって歩きました。
強い日差しの下を出口に向かって歩く人々
点呼広場にいたり、記念碑を見ました。人と有刺鉄線を象徴的に組み合わせたこの碑は見る者の胸に絶望の悲鳴が響いてくるようでした。
国際記念碑 1968年
慰霊碑 六芒星(ダビテの星)が象徴的に描かれていました
メモリアルサイトの由来を示す銘板
再びこの扉をくぐって、収容所から離れ、バス停に向かいました。726番のバスに乗りダッハウ駅へ行き、Sバーンに乗ってミュンヘンへ引き返しました。
ダッハウ収容所・バス停
【余談】 ダッハウ編を書くに当たり、何度も参照したカタログと案内リーフフレットを紹介して、ダッハウ編を終わることにします。
左:The Dachau Concentration Camp,1933 to 1945 右:リーフレット







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