2017年3月3日金曜日

独仏伊一人旅(25) 5月31日(火)夕刻 パリのノートル・ダム大聖堂からバスティーユ広場へ

サン・ミッシェル・ノートル・ダム駅で降り、地上へ出て、直ぐそばの橋をシテ島へ渡っていると、セーヌ河が増水して流れが速いことがわかった。
セーヌ河左岸 左側がシテ島
渡ったところは大聖堂前の広場で、何かイベントでも開かれたのか開かれるのか、テントが張られていて、地面に機材が置かれているなど、神聖な感じがしなかった。
大聖堂前の広場
南(左)側の入り口(聖アンナの扉口)から内陣へ入ると、夕べのミサが行われていた。警備員らしい大きな男が祈りに来た信者と観光客を振り分け、大きな声で話す観光客に”静かに”と注意していた。最後部に近いベンチに腰かけ、司祭の声や聖歌隊の歌、オルガンの響きに包まれながら、体を休めた。
奥は後陣、主祭壇上に栄光の十字架とピエタ 手前は外陣
【余談】ガイドブックによれば、主祭壇上のピエタ(若いキリストの死を悲しむ聖母の彫刻、1723年)の両側に、ルイ13世(右側)とルイ14世(左側)が聖母マリアに拝礼する像(いずれも1715年)が配置されている。ルイ13世は、自分の王冠を聖母マリアに捧げている姿だそうだ。

1時間ほど経って祈祷が終わり、参列した信者に司祭から聖餐が与えられていた。
聖餐を受ける信者
1時間ほど休んだ後、内陣を見学して、ガイドブック(英語版と日本語版)、記念のメダルを購入してから外へ出た。

【余談】ちなみに、ノートル・ダムは、「我々の貴婦人」と呼ばれる幼児を抱いた聖母マリアということらしい。従って、フランスの各地に、ノートル・ダムがある。パリ大司教座聖堂が正式の名称。1991年に「パリのセーヌ河岸」という名称で周辺の文化遺産とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。

大聖堂の基本情報(ガイドブックによる)
・建設 後陣1163-1182年、外陣1180-1200年、ファサード1190-1220年、
    翼廊1250-1270年
・高さ 尖塔spire96m 塔tower69m アーチ天井下vault33m 屋根下roof43m
・長さ 翼廊trasept12m 聖歌隊choir36m 全体total128m 身廊nave60m 
・はば 翼廊trasept48m 身廊nave12m

時刻は6時を回っていた。メトロ1号線を目指し、セーヌ川右岸とシテ島にかかるアルコル橋を渡って、オテル・ド・ヴィル駅へ向かった。
アルコル橋から見たセーヌ河 右はシテ島、正面はサン・ルイ島
どの通りを歩いたのか記憶がさだかでないが、何とかたどりついた1号線の駅ホームで不思議な車両を見た。ゴム輪鉄輪併用の車両で、1号線だけに走っているそうだ。
メトロ1号線 MP89系車両 ゴム輪鉄輪併用
【余談】ゴム輪鉄輪併用の車両では、ゴム輪は支持と駆動、鉄輪は進行方向の案内、と機能を分けているそうだ。

バスティーユ駅に着いて、地上へ階段を上るとオペラ・バスティーユの前に出た。雨は止んでいなかった。
オペラ・バスティーユ 1989年完成
バスティーユ広場の中央に、「7月の円柱」と称される記念塔が立っていた。1840年に完成した歴史的建造物である。塔頂に、黄金の天使像が据えられていて、自由の象徴とされているらしい。
7月の円柱 1840年完成
【余談】バスティーユは、フランス革命の発端となった、襲撃された監獄があったところで、それにちなむ遺跡をたどる予定であった。残念なことに、天気と日中の歩きで体力を消耗したため、早々にメトロ8号線に乗ってホテルへ戻った。「7月」は革命記念日の1789年7月14日(1890年フランㇲ建国記念日、現在フランス国民祭、パリ祭もしくはパリまつには日本だけ、英語圏ではバスティーユ・デイ)に由来する。

夕食は、ホテルの斜向かいのすし屋で、握りを食べて済ませた。暖かいシャワーを浴びてから、一日を振り返り、翌日の予定を確認して、晴れると良いなと思いながら眠りについた。翌日、日中はヴェルサイユ宮殿を訪ね、夜はオペラ・ガル二エで「魔王」を観る予定だった。

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