2017年7月30日日曜日

独仏伊一人旅(38) 6月3日(金)夕刻 街歩き スペイン広場、アウグストゥス帝廟、テレヴィの泉、フォロ・トラヤニス

一休みしてから、街歩きに出かけた。テルミニ駅の地下に下り、地下鉄Aラインに乗った。
テルミニ駅説明を追加
2つ目のスパーニャ駅Spagna駅で降り、人の流れに沿ってスペイン広場に向かった。ところが、良く知られた階段は改修工事中のため、上ることができなかった。
スペイン広場の階段
 スペイン階段の前に、バルカッチャの泉といわれる噴水があった。不思議な形をしていた。
はバルカッチャの泉
【余談】ガイドブックによると、「バルカッチャ」はボロ船という意味で、泉の水圧が弱く地中に沈める形で噴水を作ったためだという。

広場を跡にして地図を頼りに細い小路Via della Carrozzeを西方向へ歩いた。向かう先は、アウグストゥス帝廟である。
アウグストゥス(前63‐14.8.19)は、養父カエサルの後を継いで帝政を創始したローマの初代皇帝である。
廟の周りは空堀で一周したが、雑草が生い茂り、余り手入れされているようには見えなかった。正面と思われたこの場所は整備中だった。
アウグストゥス帝廟の正面(南面)
アウグストゥス帝廟の東側の大聖堂サンティ・アンブロージェ・エ・カルロ・アル コルソ教会に入った。堂内には華やかな雰囲気が満ちていた。
サンティ・アンブロージェ・エ・カルロ・アル コルソ教会の内陣


大聖堂の前のコルソ通りを南へ、次の目的地イタリア国会(下院)として使用されているモンテチトリオ宮殿を目指した。通りをしばらく歩いて右折(西方向へ)するとパルラメント広場に至った。国旗、EU旗がはためいていた。
モンテチトリオ宮殿北面(下院)
コルソ通りに戻り少し南へ歩いたコロンナ広場で右折して進むとモンテチトリオ宮殿(17世紀建立、1871年より下院)に至った。宮殿の正面(南面)とオベリスク(塔)が向かい合っていた。
モンテチトリオ宮殿(南面)とオベリスク(右前)
【余談】このオベリスクは、アウグスティヌスが古代エジプトの都市ヘリオポリスから移設した2本のうちの1本というが、倒壊して埋もれていたことがあるそうで、現在のものは1792年に時のローマ法王ピウス6世によって建立された。アウグスティヌスが建立した時から日時計として使われていて、場所は若干異なるということだ。

次にコルソ通りを東へ横切り、トレヴィの泉に向かった。泉は細いサビー二通りからクロチフェリ通りを抜けたところにあり、大勢の観光客が取り囲んでいた。
(左から)豊穣の女神ケレース、水を司るネプトゥーヌス(ポセイドン)、健康の女神ヒュギエイア
【余談】トレヴィの泉は、教皇クレメンス12世の命により背後のポーリ宮殿の壁と一体に造られ、1762年に完成したという。元々はアウグスティヌス帝に由来するそうだ。2013年1月、フェンディの支援で修復工事が始められ、2015年11月に完成した。美しい彫刻群を見られたが、残念ながら噴水は見られなかった。

人の流れについて狭いルッケージ通りを歩いていくと、グレゴリアン大学とその前のピロッタ広場に至った。
グレゴリアン大学 1551年創立
【余談】この大学はローマ教皇(法王)庁立で、神学部は世界最大規模の一つで、世界各地からの司祭、修道士、神学生、一般人など1600人学生が学んでいるそうだ。在籍者数は3400人余という。

ピロッタ通りを抜けたところで左折(西方向)してクワットロ・ノヴェンブレ通りを下って行った。しばらく歩くと左(南方向)に折れる通りがあったので進むと、トラヤヌスのフォルムForo Traianoに出た。地上から深く掘削されたところにかっての広大な建築物の柱が立っている光景から、古代ローマの世界に入ったように感じられた。そのなかに、トラヤヌスの記念柱が立っていた。フォルムは、トラヤヌス帝がダキア戦争に勝利して112年に建設され、記念柱はその翌年113年に設置されたという。
トラヤヌスの記念柱 Trajan's Column 113年

このフォルムに続いてトラヤヌスの市場跡があったが、その方向には進まず、ヴェネティア広場に向かった。右手(西方向)に、巨大なヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂が建っていた。
ヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂 1911年
【余談】ヴィットリオ・エマニュエーレ2世(1820.3.13-1878.1.9)は、初代イタリア国王だそうだ。イタリア統一の立役者といわれる。記念堂は、無名戦士の墓でもある。高さは70m。

ホテルへ戻るべく、フォロ・ロマーノに沿ってフォリ・インペリアーリ通りを進み、カヴール通りをテルミニ駅方向へ曲がろうとした。ところが、横断できなかったので、少し先へ進んでから横断して戻り、カヴール通りを進んだ。しばらく歩いているとにぎやかな音楽が流れるレストラン"Gallo Matto"があった。そのにぎやかさに引かれて中へ入って、夕食を食べた。飾ってあった魚が美味そうに見えたので注文したら、一匹姿のままの大きな魚が出てきたのには驚いた。
ワインと魚で満腹してホテルに戻った。ちょっとした街歩きのつもりが、結構時間を費やした。荷物をほどいてから、この旅で初めて風呂に入った。翌日の予定を確認してから眠りについた。






2017年7月9日日曜日

独仏伊一人旅(37) 6月3日(金)パリからローマへ、テルミニ駅に着く

5時半に起床。荷物を片付け移動の準備をして、7時半すぎにホテルをチェックアウトした。
ホテル・エタジニ・オペラ
メトロ・オペラ駅でドゴール空港までのチケット(10€)を購入して、7号線に乗った。東駅で5号線に乗り換え北駅に着いた。RERのB3ラインのホームは、通勤時間帯のため勤め人でいっぱいだった。大きなスーツケースを持つ人はほとんどいなかった。あとから乗ろうとする人に押されるようにして、列車に乗り込んだ(8時15分ごろ)。

途中でシートが空き座ることができたが、外を眺める余裕はなかった。乗っていた列車は途中駅でB5ラインと分岐し、30分ほどで空港に着いた(8時45分ごろ)。駅は空港と直結していた。予約したエアフランス機(AF1504)の出発ターミナルをしっかり記憶していなかったため、まごついたが、チケット控えでターミナル2を確かめ、その方向へ向かった。安全及び出国チェックは何ら問題なく通過し待合室に着いたが、出発時間の10時20分まで、サンドイッチを食べたりしながら待った。

離陸して30分余りが過ぎたころ、窓の外の雲の切れ目から雪を頂いた山頂が見えた。アルプスかと思ったが、乗務員に聞くことができず、自分なりに納得した。
アルプス越え?
【余談】地図で見ると、パリとローマを結ぶ航空機は、西部アルプス(スイスとフランスの国境地帯)の上空を飛行すると見られるので、間違っていないと思ったが、どうであろうか?

12時15分、ほぼ予定通りにローマ・フィウミチーノ空港Aeroporto di Fiumicinoに着いて最初にしたことは、携帯電話のSIMカードの購入・設定だった。ボーダフォンのショップで、手真似と筆談で何とか用が足りた(30€)。ついで、カフェ・ショップAutogrillで、コーヒーとサンドイッチを買い、店の前のテーブルに座って食べた。
食べ終わり、レオナルド・エクスプレス(空港~テルミ二駅の鉄道、ノンストップ)の空港駅へ歩き改札口に至った。
管制塔 イタリア風?
 そこで、チケット(14€)を購入し改札口を通って電車に乗ろうとしたところで、スーツケースをカフェ・ショップに置き忘れてきたことに気づいた。どこだったか記憶が確かではなかったが、警備員や案内係の声をかけたりしてようやくその店にたどり着いたところで、なんと置いたままの状態で見つけることができた。
フィウミチーノ空港駅改札口 イタリア風?
こんな改札口は見たことがなかったが、チケットをかざすとバーコードが読み取られ扉が両側に開いた。
忘れ物をしたため、予定より1時間遅れたが、3時に空港駅を発車し、3時半テルミ二駅24番ホームに着いた。
テルミニ駅構内23,24番ホーム
駅を出てカヴール通りを歩くと、1つ目の通りの角にマッシモ・ダゼリオホテルがあった。チェックインをした後、部屋に入り、荷物を解いてから、夕方まで一休みした。

2017年7月5日水曜日

独仏伊一人旅(36) 6月2日(木)午後 ノルマンディ上陸地を訪ねる(4) ジュノビーチ

ツアーで最後に訪ねたのは、ジュノービーチセンターといわれるカナダ軍を記念した博物館であった。Courseulles-sur-merクルスール=シュル=メールというところにあった。どんよりとした曇り空は変わらず、時刻は4時半を回っていた(オマハビーチからの距離は40㎞らしい)。

ジュノービーチ上陸作戦は、カナダ第3歩兵師団(戦力15000人)が担ったことから、カナダ国旗が翻っていた。手前は、独軍のごく軍の砲台跡で、右手前方に博物館が見えた。
砲台跡とジュノビーチセンター
この砲台には、地中に降りる階段があった。中に入ってみると、壁には弾痕が見られた。激しい戦闘が想像された。(死亡340人、負傷574人)。
博物館前には、いろいろな兵器が展示されていた。復元されたものや戦利品を修復したもののようだった。
カナダ軍の機関砲
滞在時間が短く印象に残るものは少なかったが、博物館の入り口わきの兵士の名前を刻んだプレートの碑には胸を突かれた。
戦没者の記名碑
【余談】Beny-sur-Merにあるカナダ軍墓地には、2000人を越える男たちが埋葬されているそうだ。

1時間足らずの短い見学を終わり、バスに乗り帰途に就いた。途中、サービスエリアのようなところに駐車し、休憩した。僕はトイレで用を済ませた後、コーヒーを飲んだ。
A13号沿いのサービスエリアのスーパー
ほぼ予定通りにツアー会社の営業所に帰着した。ホテルへ戻る途中の道で見かけたうなぎ屋(東京でもよく知られた店)に入り、酒とうな重を注文した。酒の酔いも程よく、うなぎも残さず食べた(49€、6205円だった)。 
何の地下道?
ホテルに戻り、シャワーを浴びてから、荷物を片付けた。明日は、イタリアへ移動する予定だった。体調は余りよくなかったが、風邪薬を飲んで休んだ。

【余談】ノルマンディ上陸地(フランス、コタンタン半島、ノルマンディ海岸)を訪ねるツアーに参加したが、5つの上陸地(ユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、スォード、いずれも作戦上のコードネームだった)のうち2か所の一端と上陸後の激しい戦闘があったカーンの博物館を見学したにとどまり、残念ながら全体像を掴むことは甚だ困難であることが分かった。
ネプチューン作戦(上陸からパリ解放までをオーバーロード作戦)と呼ばれる作戦の研究が始まったのは1943年1月、同年11月28日テヘラン会議において米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリンが討議して決定したという。
上陸した連合軍がパリを開放したのは8月25日、第2戦線(西部戦線)を構築することができ、独軍はソ連軍の東部戦線との2正面作戦を展開せざるを得なくなった。独軍が降伏したのは、翌1945年5月8日で(西部戦線降伏の日は5月4日)、上陸の日から11か月余の間、激戦が続いたことになる。
なお、これまでの記述は、現地で入手したパンフレット、小冊子(ガイドブック)、地図のほか、ウィキペディアの記事を参考にした。