【前言】今回の旅の主旨は中国における日ロ・日中間の戦争の跡をたどることであった。大連から瀋陽、北京、曲阜、南京、蘇州、上海と、曲阜と蘇州以外の都市では2~3泊して戦争の跡を訪ねた。各都市間の移動はすべて高速鉄道を利用した。チケットの手配等で、中国人のK君とその友人方にたいへんお世話になった。改めてお礼を申し上げたい。
|
大連空港 |
地下鉄2号線に乗り市内に向かった。乗客は少なかった。乗り心地は悪くはなかった。改札口の前に、荷物と身体の検査があった。検査員は若者だったが、丁寧であった。
友好広場駅に着き、地上出口(D)に向かった。歩く方向が当たり、ホテルの近くで地上に出た。チェックインを済ませてから部屋に入り、K君の知人の来訪を待った。約束の時刻にその知人と会い、チケットを受け取った。厚かましいと思ったが、翌日の旅順行きタクシーのチャーターのことを話したら、自社の車を提供してくれるとのこと、有難く依頼した。
部屋に戻ってしばらく休んだ。1時間くらい眠ったと思うが、外出の準備をして、フロントでもらった市内地図(日系企業が日本から赴任してきた人向けに作ったと思われる「大連生活便利MAP」日本語版)を持って散歩に出かけた。
大連市内風景
中山路を東に進むと友好広場(旧西広場)である。車路はロータリー式で信号がなく、車が流れていた。
|
友好広場(日中) |
|
友好広場(夜景) |
続いてしばらく歩くと中山広場(旧大広場)に至った。中央に、大連の測繪基準点(2005年6月16日)があった。古いものではなかった。
|
中山広場 大連の測繪基準点 |
旧横浜正金銀行大連支店跡
|
旧横浜正金銀行大連支店跡 |
旧ヤマトホテル跡
|
旧大和ホテル跡 |
広場の印象
|
カップル1 |
広場のロータリーから東にのびる魯迅路を進むと、もう一組の撮影現場に出会った。
|
カップル2 |
しばらくして右手に中学校があった。「厚徳博学 自強不息 求真務実 開拓選取」と記した看板が掲げられていた。保護者らしい人たちが出てくる生徒を迎えに来ていた。
|
中学の校門 |
校門の左手に、郭沫若の「石榴」と題する散文の言葉を記した掲示があり、その前に大きな「石榴の子」が2個置かれていた。因みに、この掲示には、1942年10月31日という日付が記載されていて、時代背景とのつながりや作家の感情が注目されるようだ(第7学年、すなわち中学1年生用の国語教材らしい)。
|
郭沫若「石榴」1942年 |
さらに進むと、旧満鉄本社前に至った。ガイドブックの地図では、陳列館があるようだが、開いていなかった。
|
南満州鉄道旧跡 |
遼寧省と大連市の銘板
|
遼寧省と大連市の銘板(左:市 1993年 右:省 2015年) |
旧満鉄大連図書館跡
|
旧満鉄大連図書館跡 |
旧満鉄調査部跡か?
|
旧満鉄調査部跡か? |
この後、旧東本願寺(大連京劇団)を訪ねて労働広場まで移動し、その所在を尋ねたが判明しなかった。あきらめてホテルへ戻った。
夕食は、ホテル内の日本料理店で寿司を食べた。閉店間近のためか、客は僕一人、ネタもしゃりもまずまずながら、酒は甘口だった。
|
夕食で食べた寿司 |