昼食を抜きに次に訪ねたのは水師営会見所である。運転士が道行く人に尋ねながら進み、水師営街という一角で駐車し、会見所に入った(入場料40元)。
この家は、水師営という村の農家の一つで、日本軍が占領後野戦病院として使用していて、会見室の机は手術台だっとか。1996年に古い写真をもとに復元されたもの。
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会見所・入口 |
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会見所・全景 |
尋常小学唱歌「水師営の会見」(作詞・佐々木信綱、作曲・岡見貞一)の2番に「庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸(だんがん)あともいちじるく くずれ残る民屋(みんおく)にいまぞ相見(あいみる)る二将軍」と歌われた木で、何代目かのものらしい。
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棗(なつめ)の木 |
当時の会見所か? ロシア軍人が白馬にまたがっている。
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当時の会見所? |
日ロ両軍の将帥
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日ロ両軍の将帥 |
会見室の長机、長椅子 これは
野戦病院のころの手術台とか。
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会見室の長机と長椅子(復元) 野戦病院のころの手術台らしい |
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乃木将軍の歌碑(正面左)とその拓本(掛け軸、正面) |
【余談】会見室の奥の壁に乃木将軍の詩碑と拓本が飾られていた。詩は「金州城」と題し、「山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」と刻まれていた。金州の南山を巡る激戦のあとに読まれ、将軍の日記(1905年6月7日)に記されていたそうだ。将軍の長男がその10日前に南山の戦いのなかで戦死していたといい、また、この後203高地の戦いで次男も亡くしている。
こうした由来を知らないまま、会見所の土産物店でこの拓本(掛け軸)を購入したが、翌日瀋陽への高速鉄道に置き忘れてしまい持って帰ることができなかった。
会見所を後にして大連に向かったが、2時間ほどかかりホテルに着いたのは3時を過ぎていた。運転士に感謝の言葉を伝え謝礼を手渡して別れた。部屋に入ってしばらく休んだ。
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