2018年10月21日日曜日

中国一人旅その1(14) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(1)

清王朝は1616年後金に始まり1911年辛亥革命の後1912年に滅亡する征服王朝とされる。都は最初盛京(今日の瀋陽、1616~1644年)に置かれ、ついで北京(1944~1912年)に遷都した。皇帝は、初代太祖ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤。アイシンギョロ・ヌルハチと読むそうだ)、2代太宗ホンタイジ(愛新覚羅・皇太極)、最後は第12代フギ(愛新覚羅・溥儀、宣統帝、後に満州国皇帝となる)である。瀋陽には、初代ヌルハチと第2代ホンタイジの陵墓がある。前者は福陵(東陵公園内)、後者は昭陵(北陵公園内)として保存され、ともに世界遺産に登録されている。

この日の午後1時半初の和諧号で北京へ移動する予定であったため、見学時間や移動時間を考慮して地下鉄で行けるホンタイジの昭陵を見学することにした。

朝食後地下鉄2号線瀋陽北駅から北陵公園に向かった。北陵公園駅に着き地上に出て少し歩くと公園の正門に至り、入場券を買って入った(6元)。
北陵公園正門
正門から昭陵まで南北に広い歩道が続いていた。途中に、ホンタイジの立像が建てられていた。曇天のため、写真では人物像がよく見えないのが残念だ。
ホンタイジ(皇太極)像
さらに進むと、両側に2本の石柱や獅子をはじめ10体余りの石獣(動物像)が据え付けられていた。

石柱
石柱
石柱
哺乳石獅
哺乳石獅(1)
哺乳石獅子(2)
中央の通り「神道」を歩いて、「神橋」を渡った。
神橋
さらに進むと碑楼(石碑坊)があった。
碑楼(石碑坊)
紅門と呼ばれる昭陵の入り口に辿り着いた。ここで、昭陵の入場券(陵寝半价票25元)を買い、右(東)側の「君門」から入った。
正紅門(1)
正紅門は最初1649年(順治6年)に建設されたという。中央が「神門」、左(西)側が「臣門」と呼ばれるそうだ。案内版によれば、昭陵は長方形の赤い壁で囲まれ、南面の正紅門のほか、東に東紅門、西に西紅門がある。
正紅門(2)
(つづく)



2018年10月10日水曜日

中国一人旅その1(13) 6月8日(木)午後 張氏師府・東院 大青楼、小青楼、花壇

中院から東院に移って、岩山に見立てた假山の通路の上部に「天理人心」(張作霖書)と彫られた額が掛かっていた。大青楼はその先にあった。
山の通録上「天理人心」(南側)
【余談】大青楼は、灰色の石材からこの名前が当てられたという。1922年、張作霖が爆殺される6年前(1928年6月4日、皇姑屯事件、日本では満州某大事件という)に完成した。内部には、張作霖と張学良の執務室と私的な居住空間が作られていた。地下1階、地上2階の建物である。
大青楼の正面
1階には、張作霖の執務室をはじめ、東北政務委員会室、老虎庁などの部屋があった。
張作霖の執務室 手前はアイスボックス
老虎庁と言われる客室は小青楼で3つ目の客室で、1929年1月10日、この部屋で張学良が張作霖の知恵袋と言われた楊宇霆と黒竜江省省長の常蔭槐を「新政阻害、統一破壊」の罪で処刑した「楊常事件」が起きたことからよく知られるようになったそうだ。
老虎庁
2階は、張学良が使用していた執務室のほか家族との生活が営まれた部屋があった。
張学良の執務室
再び假山の通路をくぐり、花壇に出た。通路の上には、「慎行」と書かれた額が取り付けられていた。
山の通録上「慎行」(北側)
花壇と岩山、東屋
最後に見学したのが小青楼である。張作霖は、皇姑屯事件のため重体となり、ここの会客庁(客室、右の白いカーテンの奥)に運ばれ、死去したという。
小青楼の客室
【余談】小青楼は、1918年張作霖が第5夫人のために建てたもので、1階には娘たちが住んでいたそうだ.

張作霖は張氏師府の小青楼を建ててから10年、皇姑屯事件のため53歳で亡くなった。その後を張学良が継いだが、戦後国共内戦を経て国民党が共産党に追われ台湾に逃れたことから、一緒に移つされた。1991年、ハワイに移り100歳まで生存した。親子の半生は波乱に満ちていたといえ、日本の軍人や政治家が彼らの人生に関わっていたことは間違いないようだ。

バスに乗りホテルに戻ってから少し休み、8時過ぎにホテルのレストランで夕食を食べた。翌日の予定を確かめてから眠った。


2018年10月2日火曜日

中国一人旅その1(12) 6月8日(木)午後 張氏師府

故宮を離れて張氏師府へ行く途中、俄雨が降ってきたので、傘を差しながら先へ急いだ。時々地図アプリを見て確かめながら歩いているとほどなく入り口前の広場に着いた。

入り口前の広場に張学良(将軍)の立像が建てられていた。俄雨が上がったばかりで空には雲が残っているうえに逆光で顔がよく見えないのが残念だ。
張学良将軍立像
参観路線図を見ると、師府全体が中院を中に東院と西員の3エリアが構成されていることがわかる。建設は1914年に始まり、面積は5.3haだそうだ(ちなみに日本の首相官邸は4.6haという)。
参観路線図
中院はまた3つの四合院のような建物(一迸(進)院、二迸(進)院、三迸(進)院、三進四合院という)で構成されている。
中院 一選院の入り口
一迸院の西側にある承啓処(受付室)には、文部承啓官(受付係)が配置されていて、元帥府への来訪者の通報・案内をしている様子が人形で再現されていた。
承啓処(受付室)
承啓処と向かいあった(東側の)内帳房(会計)と呼ばれる部屋では、現金をやりとしている様子が人形で再現されていた。ここは、元帥府の会計・経理を担当する部署で、張作霖とその家族の家計を管理していたようだ。

内帳房(会計)
二迸院の入り口が「垂花儀門」である。垂れ花飾りは木造で、張作霖が賓客や中外の使節を迎える儀式を行うことに因んでいるという。扉は観音開きで、透かし彫が施されているそうだ
二選院の入り口「垂花儀門」
二迸院は、張作霖が1916年から1922年の6年間、私邸兼官邸として使用していたところで、建物の東部分は張作霖の執務室と寝室、西部分は書斎と会議室がある。
張作霖の執務室
会議室
また、二迸院の東側と西側には秘書室の建物が建てられ、元帥府の秘書や職員が勤め、「日常事務の手配及び庶務を取り扱っていたという。 

執務室前の通路を進むと三迸院に至る。ここは、張作霖、張学良とその家族が1916年から1922年まで生活していたところで、西側の建物には、張学良と于鳳至(妻)、向かい側(東側)の建物には張作霖の第4夫人とその子どたち、正面(北側)の建物には、張作霖の第2夫人と第3夫人が居住していたという。これらの居住棟の内部には、当時の生活の様子を復元する一方、様々な資料や遺物が展示されていた。
張学良と于鳳至(妻)の居住棟
寝室


張学良(右)と周恩来(左)との秘密会談 1936年4月9日、於膚施(延安)
張学良(右から2人目)、東北辺防軍司令官就任宣誓 1929年2月4日(奉天)
中院の見学を終えて、つぎに東院の大青楼、小青楼、花壇に向かった。