中院から東院に移って、岩山に見立てた假山の通路の上部に「天理人心」(張作霖書)と彫られた額が掛かっていた。大青楼はその先にあった。
【余談】大青楼は、灰色の石材からこの名前が当てられたという。1922年、張作霖が爆殺される6年前(1928年6月4日、皇姑屯事件、日本では満州某大事件という)に完成した。内部には、張作霖と張学良の執務室と私的な居住空間が作られていた。地下1階、地上2階の建物である。
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大青楼の正面 |
1階には、張作霖の執務室をはじめ、東北政務委員会室、老虎庁などの部屋があった。
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張作霖の執務室 手前はアイスボックス |
老虎庁と言われる客室は小青楼で3つ目の客室で、
1929年1月10日、この部屋で張学良が張作霖の知恵袋と言われた楊宇霆と黒竜江省省長の常蔭槐を「新政阻害、統一破壊」の罪で処刑した「楊常事件」が起きたことからよく知られるようになったそうだ。
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老虎庁 |
2階は、張学良が使用していた執務室のほか家族との生活が営まれた部屋があった。
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張学良の執務室 |
再び假山の通路をくぐり、花壇に出た。通路の上には、「慎行」と書かれた額が取り付けられていた。
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假山の通録上「慎行」(北側) |
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花壇と岩山、東屋 |
最後に見学したのが小青楼である。張作霖は、皇姑屯事件のため重体となり、ここの会客庁(客室、右の白いカーテンの奥)に運ばれ、死去したという。
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小青楼の客室 |
【余談】小青楼は、1918年張作霖が第5夫人のために建てたもので、1階には娘たちが住んでいたそうだ.
張作霖は張氏師府の小青楼を建ててから10年、皇姑屯事件のため53歳で亡くなった。その後を張学良が継いだが、戦後国共内戦を経て国民党が共産党に追われ台湾に逃れたことから、一緒に移つされた。1991年、ハワイに移り100歳まで生存した。親子の半生は波乱に満ちていたといえ、日本の軍人や政治家が彼らの人生に関わっていたことは間違いないようだ。
バスに乗りホテルに戻ってから少し休み、8時過ぎにホテルのレストランで夕食を食べた。翌日の予定を確かめてから眠った。
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