2020年3月10日火曜日

中国一人旅その1(37) 6月13日(日) 南京(その1)

今回の旅の目的の重要な一つは、先の大戦前の歴史に残る旧日本軍の取った行動の跡をたどることで、これまで旅順の日露戦争の戦跡、瀋陽の柳条湖事件の跡と記念館、さらに北京の盧溝橋の戦跡と記念館をたどってきた。今日はこの旅で最後となる南京事件の跡と記念館を見学する予定だった。
朝食をしっかり摂ってから、ホテルを出た。地図アプリで調べておいたバス停は近くにあった。バスに乗り、漢中路から水西門大街を通り、江東門記念館で下車、歩いて目的の「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」(以下、記念館)に着いた。
案内図をみると、空母の形のようで、水平に左が東、右が西、上下は上が南、下が北で、通常の地図とは真逆であった。
1号門江東門では身分確認もなく、入場(無料)すると大きな女性像が目に入ってきた。「家破人亡」と名付けられ、夫や子どもを亡くしレイプされて悲嘆にくれる女性という。
プールの中で立つ女性は死んだわが子を抱え、空を仰いでいる。
「家破人亡」像

集会広場のモニュメント
展示室入り口の大きな立看板には「共同見証1937南京大屠殺」(見証=証人 屠殺=虐殺)と書かれ、特別展が開催されていた。
展示室入口
中へ入るとうす暗く、展示パネル「日軍轟炸南京」に照明が当てられていた。南京事件に先立つ1937年8月15日、日本軍海軍機20機による渡洋爆撃で南京市内の工場、商店、病院、学校など非戦闘施設が被害を受けたことを伝えている。
説明を追加
次のパネルは、海軍機による南京渡洋爆撃を報じる新聞記事(1937年9月19日付)の切り抜きである。
南京渡洋爆撃を報じる新聞記事(1937年9月19日号外)
次のパネルは、日華両軍の進軍、対峙、撤退の展開状況を非常に分かりやすく示していて、興味深かった。南京市城外の防戦陣(灰色の▲線)、市内の守備陣(赤色の太い線)、侵攻する日本軍(青色の細い線)と撤退する中華軍(灰色の太い線)の動きを知ることができたが、中国の人々はどのように見ているのか、甚だ興味深いパネルと思った。
日華戦闘図

2020年1月18日土曜日

中国一人旅その1(36) 6月12日(土)夕刻 南京に着く

高速鉄道京滬(こ、上海の古称)線の曲阜東駅から南京駅に向かう途中で、徐州駅に停車するのではないかと思っていたら、その通りだった。車窓から見る限り、驚くほど人影が少ない。日本でも見られる風景かもしれない。

あ京滬線徐州駅

【余談】徐州は、軍歌「徐州徐州と人馬は進む徐州居よいか住みよいか…」と歌われ、日日中戦争中の1938年4月7日から6月7日まで日本陸軍と中国軍が戦った(徐州会戦)ところであるが、その直前3月から4月7日にかけて日中間に台児荘※の戦いと呼ばれる戦闘があったという。日本軍(北支那方面軍第2軍第5、10師団、戦死2300人余、負傷9600人余)は中国軍の大部隊(第20軍団、約10万人、戦死、負傷2万人)に包囲され戦略撤退、徐州作戦の引き金になったという。4月7日、撤退中の部隊(坂本支隊)が反転し、徐州会戦が始まった。同日、大本営は「徐州付近の敵の撃砕を企図」する命令を北支那方面軍・中支那方面軍に下達した。こうして不拡大方針(2月16日御前会議で決定)は放棄されることになった。

台児荘は、徐州の北方約40km、山東省棗荘(ぞうそう)市にあり、台児荘大戦記念館が建てられているそうだ。

南京に近づくと大河か、湖と見まがうような¥ところを走った。長江かとも思ったが時計をみると南京までは30分ほどありそうで、違うと考えた。

列車は18時過ぎ南京南駅に到着した。ホームからコンコースに上がると人が混みあっていて、ラッシュアワーだった。人の流れに沿って進み、地下鉄1号線のホームに至った。入線してきた電車に乗り、新街口に向かった。
南京南駅4,5番ホーム
地上へ出たものの、ホテルを探したが生垣に囲まれていて分かりにくかった。少し西の方向へ歩いて見つかった。チェックインを済ませ、エレベータで21階まで上り部屋に入った。これまで宿泊したことがない良い部屋で、窓の外の眺めもまずますだった。
新街口 中央右寄りの建物が”PRADA
夕食を摂るため外へ出たが手ごろなレストランが見当たらずホテルに引き返し、地下のドイツ風ビアレストランで久しぶりにビールを飲みソーセージとパンで夕食を済ませ、部屋に戻った。
翌日の工程を確かめ、風呂に入って休んだ。







2019年10月24日木曜日

中国一人旅その1(35) 6月12日(月) 孔廟(2) 

次に向かったのは、廟内5門の一つ、聖時門であるが、ご覧のように改修工事中のため、内部の様子は見られなかった。明の永楽13年(1415)に建てられた門で、呼称は孟子の「孔子、聖之時者」に因むそうだ。
改修工事中の聖時門
続いて、璧(び)水橋を渡り、大中門に進んだ。璧水橋は、明の弘治13年(1500)に架けられ、清時代に改修されたという。璧水は、天子(皇帝)が学ぶところを取り囲む水を示すそうで、この橋を越えると、そういう場所に入ったことを意味しているらしい。
璧水橋 正面に見えるのは、弘道門
弘道門(2の門)は、明の後部13年(1415)に建てられた。清の雍正帝によって、論語・衛霊公「子曰。人能弘道。非道弘人。」から命名したという。
弘道門の扁額
大中門(3の門)、初めて建てられたのは宋の時代、北宋の時代は孔廟の大門だったそうだ。明の弘治年間に大きく改修(重修)されたという。
大中門 3の門
角楼は、大中門と同文門の中間に位置し、東西の端に建てられていた。
角楼
同文門(4の門)は、始め宋時代に建立されたが、経年で改修が重ねられたという。清の康煕帝の時に「参同門」と名付けられ、雍正7年(1729)に「同文門」と欽定されたそうだ。案内板には、礼記の「書同文、行同倫」から取ったと記るされていたが、中庸の28章には「今天下車同軌、書同文、行同倫」と記され、「今や天子は車のわだちの度も同じく、書や文字も同じく、礼儀作法の次第順序も同じである」という。特徴として両側に壁がないところが珍しかった。気がつかなかったが、4周に大きな亀の足と龍の首をの石碑が配置されていたそうだ。
同文門
奎文閣は、もと北宋の天嬉2年(1018年)に建立され、金の明昌2年(1191年)の重建を経て、明の弘治17年(1504年)に拡建された中国有数の木造楼閣という。奎文は孔子を天上の奎星(文章を司る星?)に例えていう言葉らしい。
奎文閣
奎文閣内部の一角で書籍・文房具を販売していた。
奎文閣内部
大成門(第七門)の前に植えられた「先師手植檜」(孔子のお手植えの檜)
「先師手植檜」
大成門前櫓の柱には竜が彫られていた。「竜柱」といい、10本ある。
大成門の竜柱
大成殿の両廡(ほそどの、細殿)は全長163mと長く、東西に建てられている。歴代の先賢先儒を供奉しているそうだ。
大成殿の両廡(細殿)
杏壇は孔子が儒教を弟子たちに教えたという3層の建物で、大成門と大成殿の間にあり、孔子第45代の人が金の明昌年間に建てたそうだ。建物の名称は杏を植えたことに因むという。
杏壇の天井の四周と中央に竜が合計12描かれていた。鮮やかな金色である。
杏壇の天井画
大成殿は、孔廟の主体的建物で、孔子を祭る中心的な場所である。横9間45.8m、奥行き5間24.9m、高さ24.8mという。前櫓は、浮彫がある10本の石柱(高さ6m、直径0.8m)で支えられている。浮彫は2匹の竜が向かい合う姿で、中央の祭壇には孔子座像が祀られていた。 扁額「生民未有」(生民は持っていないという意味)は清の雍正帝が書いたという。
大成殿の前柱10本には、竜が彫り上げられた竜柱で支えられていた。
左側の5本 
右側の5柱
寝殿は孔子夫人を祀る所として、宋の天キ2年(1018年)の建立され、清の雍正8年(1734年)に再建されたという。幅7間33.77m、奥行き4間17.86m、高さ22mである。大成殿をやや小さくしたような建物である。
孔子夫人の寝所
 寝殿内部、中央に孔子夫人を祀る祭壇が据えられていた。厨子の中に「至聖先師夫人神位」と刻まれ牌位(日本でいう位牌)が祀られていた。後漢時代から儒教の葬礼に用いられる神主といわれるものか。
孔子夫人を祀る祭壇
この後、昼飯を食べるため外へ出た。門前の食堂で饂飩を食べてから、孔子の旧宅跡という孔府を見学したが、感心させられるものはなかった。
タクシーで曲阜東駅に戻り、南京行き16:20発の列車G43号を待った。
駅正面

改札前の待合風景
ガランとしたホーム
和諧号43G号

2019年6月29日土曜日

中国一人旅その1(34) 6月12日(月) 孔廟(1)

曲阜(Qufu)には、「孔廟、孔林、孔府」(三孔)という尊孔崇儒の遺産が世界遺産として保護されている。
 6月12日(月)朝8:45北京南駅を発車した和諧号(G111)は、10:49すぎ曲阜東駅に到着した。コンコースで手荷物預かり処を探し何とか見つけられたので預けてからタクシーに乗った。整備された道路を走り着いたところが曲阜城の南正門前で、「萬仞宮牆」という文字がが刻まれていた。この文字は論語の一節よりとられていて、「学問を収めるのに近道は無い、真面目に学ぶのみ」という意味だそうだ。
 孔子(紀元前551-479年)の故郷といえるこの地に建立された建築物群、三孔の孔廟=学問所、孔林=墓所、孔府=旧宅のうち、孔廟と孔府の見学にとどめ、孔林には行かなかった。
曲阜城南正門 「萬仞宮牆」
南正門をくぐると、北に向かって一直線に廟前の5坊や廟内の5門をはじめ、閣、殿と呼ばれる建築物が並んでいて、南北の全長は1300m、主体の長さは650mという。

5坊の最初は金聲玉振坊である。「金聲玉振」は、孟子の万章下「孔子聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者。金聲玉振之也。」から取った言葉だそうだ。4本の柱の頭には朝天吼(ちょうてんこう)という一角獣が彫られているという。集大成の後の「金聲玉振之也」はちょっとわかりにくいが、「始まりと終わりの整っているさま」といい、「才知や人徳が調和して、よく備わっているたとえ」とも。孟子が孔子の人格を賛美した語ということだ。
金聲玉振 明の嘉靖17年(1538)建立
先へ進むと、靈星門である。高さは10.34m。当初は木造りであったが、清の乾隆19年(1754)に石造りとなったそうだ。
靈星門 明の永楽13年(1415)建立 手前は羊水橋
太和元氣坊は明の嘉靖23年(1544)に建てられた。「太和」は天地を指し、日月、陰陽ともに和となうという。「元氣」は宇宙の自然の気、儒家思想において世界万物の原始の本をたとえて言うことだそうだ。
太和元気坊
先(北方向)に進むと、至聖廟と篆刻された坊門があった。明の弘治13年(1500)に建てられ、当時は宣聖廟と呼ばれていたそうたが、清の雍正7年(1500)の改修時に改名されたという。
至聖廟坊

2019年6月8日土曜日

中国一人旅その1(33) 6月12日(月) 午前 北京南駅から曲阜東駅 孔府、孔廟


地下鉄4号線宣武門駅から3駅目、北京南駅に10分足らずで着いた。折から通勤時間帯で、週明けの月曜日でもあり、地下から地上までエスカレーターを乗り継いでコンコースまで多くの人の波が続いていた。乗車したのは、〇〇、上海行きだった
発車到着案内板
和諧号〇〇

車中



中国一人旅その1(32) 6月11日(日)夜 北京京劇、北京梨園劇場

開園時間19:30より早く着いたので、ホテル前の食堂で軽い夕食を摂ってから劇場に入った。
舞台の下手でスポットライトを浴びた老俳優が、この後務める演目での隈取り(化粧?)の様子を見せていた。
舞台
 演技


剣士と姫
 フィナーレ
フィナーレ
公演が終わり、最寄りのバス停車からバスに乗った。宣武門で降り、ホテルに戻った。荷物を片付け、明日の移動(曲阜~南京)に備えた。曲阜では孔子に因む歴史の跡を訪ね、その後南京に入る、都市間の移動は、いずれも高速鉄道「和諧号」を予約してある。

2019年6月5日水曜日

中国一人旅その1(31) 6月11日(日)午後 天壇、祈年殿、皇乾殿

前日は閉門されていた祈年門を通り、豊穣を祈るための祈年殿に向かった中央の扉は、天の神「皇天上帝」が通り、皇帝は右(東)の扉を、百官は左(西)の扉を通ったという。最初の門は明の早い時期に建立されたそうだ。
祈年門
祈年殿を囲むように築かれた東壁に沿って燔柴炉があった。天の神を暖かく迎える儀式で、削られた子牛が入れられ末の小枝や葦が燃やされたという。
燔柴炉(ばんさいろ)
燎炉(りょうろ)
祈年殿 最初に建立されたのは明の永楽18年(1420)、大祀殿という。1階建て、矩形の大殿だったそうだ。嘉靖24年(1545)に3層と改築され、上層から青、中層木黄、下層緑色に塗り分けられ、大享殿に改称された。さらに清の乾隆16年(1751)に改修、藍色の瓦に吹き替えられに、名称も祈年殿と定まったという。高さ38.2m、直径24.2m。
祈年殿(南面)
祈年殿
祈年殿の祭壇 「皇天上帝」の位牌
祈年殿の天井画
皇乾殿 祈年殿の北側に、明の永楽18年(1420)に建てられた「天庫」であった。後に清の嘉靖24年(1545)に改築され、皇乾殿と改名されたという。扁額は同帝の筆だそうだ。
ここで、春の祈谷壇で神位を奉祀する祭典が行われたという。
皇乾殿
中央の石壇に「皇天上帝」の神位が祀られていた。
中央の石壇に「皇天上帝」の神位
右(東)側の4つの石壇に、北(奥)から南(手前)へ清の第1代太祖天命帝,3代順治帝,5代雍正帝,7代嘉慶帝の皇帝位牌が祀られているという。
左(西)側の祭壇
左(西)側の石壇に、北(奥)から南(手前)へ清の第2代太宗崇徳帝,4代康熙帝,6代乾隆帝,8代道光帝の皇帝位牌が祀られているという。
右(東)側の祭壇
丹陛石雕 祈年殿は3層の石壇のうえに建立されているが、南北をはじめ8つの階段が設置されていて、次の写真は北側中央の階段である。階段の中央部は、山海の双龍と山海の双鳳が彫られている。
説明を追加
古希門 清の乾隆46年(1781)、皇祈殿の西側にする古希を迎えた,70代以降の官員の歩行距離を短くするため設置されたという。皇帝でこの門を使ったのは乾隆帝だけだそうだ。
古希門
長廊
長老で寛ぐ高齢者
昨日と同じように長廊を通り、東門から外へ出て、今日の3つ目、最後の目的地、北京前門建国飯店に向かった。