2014年11月8日土曜日

2014アメリカ一人旅 【ワシントン第3日 2/2】 ゲッティスバーグ古戦場Visitor Centerから古戦場を巡る

ゲッティスバーグ古戦場ビジターセンターの案内板
ツアーバスは、ゲッティスバーグ古戦場Visitor Centerに着いた。センターのガイド(ボランティア?)が出迎えてくれた。

 配られたサイクロラマのチケットには、12:45PMと記載されていた。それまでに昼食を済ませ、少し周辺を歩いてみたいと考えた。サロンでピザ、スープ、コーヒーを取り、大きなテーブルで食べた。朝食を取らなかったからか、非常に食欲があった。

 食べ終わってからバスできた道を辿りミード将軍の司令部跡を目指したが、かなり距離があるようで案内板のところから引き返した。


  Museumに戻り、ツアー一行とともに最上階に登って、サイクロラマをみた。360度の全周スクリーンに戦闘の場面が映し出された。野砲が白煙を上げ聾音を響かせる、兵士が鬨の声を上げるなど、7月1日(水)から3日(金)までの3か日間の戦闘を臨場感をもって見せてくれた。



The Battle at a Glance 上左:リー司令官 上右:ミード司令官
ゲッティスバーグにおけるBattle(戦闘)は3か日間続いた。その時の戦闘図(左端)では、第1日(7月1日)の夜明けに始まった戦闘では、南部連合軍が優勢であったように見える。

 しかし、第2日(7月2日)、第3日(7月3日)と戦闘が続くなかで、次第に北部連邦軍(青)の勢力が増し、南部連合軍(赤)を圧迫、敗戦に追い込んだようだ。

 左から3つ目の戦闘図を見ていると、素人目ながら、北部連邦軍は、第3日目にはCemetery HillやCulp's Hillといった尾根や高地に展開して優位な位置に立つことができたと思われる。ゲッティスバーグの戦闘での勝敗は、Civil War(南北戦争)全体の帰趨を決することとなったとされているらしい。

6ポンド野砲
【余談】 ゲッティスバーグの戦闘において、南部連合軍の司令官はRobert E. Lee.で、良く知られた将軍である。他方、北部連邦軍の司令官はGeorge Gordon Mesdesであった。北部で良く知られた軍人はグラント将軍であるが、ここでの戦闘ではミード将軍が指揮をとっていた。

 博物館には、戦闘の場面・略記のほか、兵士の服装、使われた武器などが展示されていた。2時までということで、駆け足で巡り歩いた。

【余談】 写真の6ポンド野砲'6-Pounder Field Gun'はUnion軍すなわち北部連邦軍は使用していたものの、南部連合軍にはなかったらしい。強力な軍備を整える力がなかったのか、兵士の装備、例えば軍装にもそうした財力の差が現れているそうだ。

 2時から、古戦場'Battelfield'を巡るバスツアーが始まった。ルートマップには、16か所のポイントが記されている(全長38kmということだ)。熟練のガイドがバスに乗り込んで案内と説明をしてくれた。

Eternal Light Peace Memorial
【余談】 もっとも僕はほとんど理解できなかったので、もっぱらルートマップの説明を読んでこうかああかとわかったような気分でいた。

 ゲッティスバーグの市街を通り抜け、最初にバスを降りたのは、Eternal Light Peace Memorialであった(ポイント②)。

 戦闘の初日7月1日午後1時、この石碑のある丘から北部連邦軍が南部連合軍を脅かしながら攻撃したという。石碑は、戦闘から75年後、1800人を超える戦闘に加わった老兵士が援助して建立された。その両側には野砲が据え付けられていた。

【余談】 石碑を背にして戦場を展望していると、当時の司令官、将校、兵士がどのような思いを抱いて戦いに臨んだのか、戦闘は文字通り命を懸けたものであったことに胸を突かれるような思いがしてきた。

North Carolina Memorial
バスに戻り、ツアーが続いた。のどかな草原のなかに伸びている道路をゆっくり走っていく。窓から眺めていると、低い丸太で組んだバリケードや石垣が見えた。野砲が据え付けられているところもあった。

 次に降りたのは、North Carolina Memorial(追悼碑)であった(ポイント④)。古戦場には、各州の記念碑・像があるそうだが、これはその一つ、ノースカロライナ州の記念像である。戦闘の凄まじさを物語って見るものに訴えていると思った。

【余談】 ノースカロライナ州は合衆国12番目の州であるが、1861年5月に脱退し、アメリカ連合国に加盟していた。南軍に125000人が出征し最も多かったが、約4万人が病気や戦傷、飢えなどで亡くなったという。一方、北軍にも15000人くらい従軍したらしい(Wikipediaの記事による)。

Little Round Top 左奥はDevil's Denと思われる
第2日目(7月2日Thu)朝早く、両軍の主力が戦場に到着して対峙した。最初に攻撃を仕掛けたのは南部連合軍で、左軍、中央軍、右軍が、北部連邦軍を攻撃した。しかし、いずれも撃退されたということだ。

 ツアーマップにポイント④から⑭まで⒒ポイントを挙げられているように、この日は古戦場の様々なところでハードな戦いが繰り広げられた。両軍の負傷者は19000人に及ぶという。北軍の被害も多かったが、重要な地形を保持したと書かれている。

3か所目は、Little Round Top(ポイント⑧)と言われる高地で、ガイドブックには、第2日目午後4時から6時の項に記述されている。巨岩が肌をむき出し、樹木はほとんど見られなかった。平地との標高差は数十メートルくらいか。近くに、Devil's Den(悪魔の住処という意味か?)があり、戦死した南部連合軍兵士が横たわっている写真が残されている(公式ガイドブック51頁)。

High Water Mark
【余談】 同書によれば、南部連合軍は下から攻め寄せ、これを北部連邦軍が防ぎ頂上を守ったと書かれている。この日は、他の戦場でも7:30、恐らく日没まで戦闘が続いた。その夜、北部連邦軍のミード司令官が作戦会議を開き、深夜に至って、高地に留まり守備を固めて戦い抜くことに合意したとある。

 ツアー一行はバスに戻り、High Water Mark(ポイント⑮)と言うところを車中から見た。ここでは、7月3日(金)午後、約2時間、砲撃戦が続くいた。そして、Culps Hillを保持しつづけた北部連邦軍が優位に立ち大勢を決することになったようだ。同書には、その夜、数千人の南部連合軍兵士が退却したと記されている。

【余談】 3日間の戦闘による死傷者(死者、負傷者、捕虜、行方不明)は北部連邦軍が23,000人に対し、南部連合軍は28,000人であったという。双方に大きな被害をもたらしたに違いない。
 有名なリンカーンのゲティスバーグ演説が行われたのは、戦没した兵士National Cemeteryにおいてで、1863年11月19日であった。2分程度の短い演説であったためか、その姿を撮った写真は見当たらないらしい。

 ツアーバスは、この墓地の横を通り過ぎ、ワシントンへの帰途についた。大きな渋滞に巻き込まれることもなく、午後6時過ぎユニオン駅バスターミナルに到着した。そこからサーキュレーターという1ドルバスに乗り、10分余りでホテル近くの11Th.Stのバス停に着いた。そこで降りて少し歩いてホテルに帰り着いた。

 この夜は、バス停から歩いているときに見かけたMayur Kabab Houseというインド料理店に行き、チキンカレーを食べた。疲れた身体に強い香辛料がきいた料理は合っていたようだ。飲んだビールはインドで良く飲まれているというKingfisher(395ml)であった。

 ホテルに戻り、風呂に入って身体の疲れを癒した。明日は、ワシントン最後の1日、午前中はアーリントン墓地を訪ね、午後はモールを散歩する予定である。パソコンにカメラの写真データを移してから休んだ。

【追記】 誤認や誤解があるかもしれない。気づかれた時は、無知無能を笑い許してもらいたい。

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