2014年11月19日水曜日

2014アメリカ一人旅 【ワシントン第4日 1/3】 アーリントン墓地を巡る

 6月3日(火)、前日の疲れもあったのか、目覚めは遅かった。8時過ぎ、ホテルのレストランで朝食を摂り、部屋に戻って出かける準備をした。地図とカメラをショルダーバッグに納めて出かけた。

【余談】 前夜カメラのSDカードをパソコンに挿入しデータを移した後そのままにしておいたことを忘れ、カメラにSDを戻さないまま出かけていたことに午後になってから気づいた。従って、午前中アーリントン墓地などを撮ったつもりでいたが、データがない。残念至極だ。

 ホテルを出て、前日降りたサーキュレーターのバス停まで歩き、バスを待った。アーリントン墓地へは地下鉄ブルーラインのメトロセンター駅から乗って行くルートがあったが、今日は、まずフォギーボトムまでバスで行き、そこから地下鉄に乗ることにした。ほどなくバスが来て、1ドルを払って乗り込んだ。バスは、K St.を西に向かって進んだ。


 途中、いくつかのバス停で様々な人々が乗り降りしたが、ネクタイ・スーツの男性やツーピースの女性は見かけなかった。通勤帯から外れいたためか。ワシントンサークル公園の手前のバス停で降り、地下鉄のフォギーボトム-GWU駅に向かった。駅へ下りる入り口のすぐ隣にGWU(ジョージ ワシントン 大学)の門があったが中へは入らず、駅へ進んだ。

【余談】 ワシントンの都市計画のコンペに合格した人は、ピエール・シャルル・ランファンというフランス人だそうだ。その図を見ると、東西道路(アルファベットで表記)と南北道路(数字で表記)、そして斜めに走る道路(州名で表記)が交差している。馴れるとわかりやすいか。

 地下鉄に乗りアーリントンへ向かった。電車は、駅を出てまもなくポトマック川の下を通り過ぎたと思う。2つ目の駅がアーリントン墓地駅だ。ホームに出てどの方向へ進めばよいかと周りを見ると、親子連れや高齢者のグループが歩いていたので、彼らの後に続くことにした。長いエスカレーターで上に行き、通路をしばらく歩くとエレベータがあった。それに乗ってようやく地上へ出た。

 先を行く人の後について歩き、右に曲がるとMemorial Avenueで、遠くに墓地のゲートとその先の高台にArlington Houseが見えた。しばらく歩くとWelcome Centerへ通じる入り口があった。

 Welcome Centerでマップを入手し、どこをどのように見学しようかと考え、まずケネディ大統領と家族の墓President John F.Kennedy and family(Section 45)、次にCivil War Unknowns Monument南北戦争の無名戦士の慰霊碑(Section 26)と決め、墓地内を巡るバスには乗らず歩き始めた。

 多くの人が進んでいくなかに、小学校高学年と思われる生徒のグループがいくつも見られた。教員らしき人が引率していた。社会科見学のようだ。

 坂をしばらく上ると、ケネディ大統領と夫人、弟リバートの墓地に至った。周りを花崗岩の低い壁が取り囲む芝生のなかで永遠の炎が立ち上り、その前に二人の名前を刻んだプレートが埋め込まれていた。そこでしばし黙礼した。

 周りは、少年たちの会話で結構にぎやかだった。”Respect And Quiet”と記された立札もあまり効果はなさそうだ。振り返ると、ポトマックを越えてリンカーン記念堂、ワシントン記念塔、さらに議事堂が望まれた。

【余談】 大統領が凶弾に倒れたのは、1963年11月22日(日本では23日)であった。その知らせを聞いたのは京都で学生生活を送っていたときである。忘れらない事件であった。

 ついで、南北戦争の無名戦士の慰霊碑に向かった。この碑はアーリントンハウスのある高台にあり、地図を頼りに進んだがなかなか見つからず、かなりの時間を費やした。ようやく辿り着いて、前日の古戦場の光景を振り返りながら黙礼した。

 小休止したのち、3つ目の目的地、Tomb of The Unknown Soldier無名戦士の墓と記念野外劇場に向かった。先の高台からさらに南の高い台を目指し、墓地のなかの小路を下り、そして、上り、着いたところに墓石と劇場があった。

 墓石は、白い大理石で作られ、陸軍第3歩兵隊のライフルを持った衛兵が24時間交替で警護している(交替式は、30分、1時間、2時間と季節や時間帯で異なるらしい)。交替式は、将校と兵士2人が、墓石の前後を交互に21歩で行き来する儀式である。

 12時ごろであったと思うが、リースを捧げ持った兵士が遺族を伴い墓石の前に供えた。ラッパ手が寂しい曲を吹き鳴らし、若い寡婦と思われる女性と子どもが祈りを捧げている光景には、胸に感じるものがあった。これを見守っていた多くの人々も同じ思いを抱いていたのだろうか、静に見つめていた。献花が終わると、衛兵たちもライフル銃を掲げながら戻って行き、後には歩哨が立っていた。

 野外劇場の地下にある手洗いで用を済ませてから、広い道を下りながらWelcome Centerに戻った。少々歩き疲れたの休憩した。昼食を摂りたくなったが残念ながらレストランはなかった。

【余談】 アーリントン墓地のあるところは、ワシントンCDではなく、ヴァージニア州で、南部連合軍の司令官リー将軍の邸宅(アーリントン ハウスと呼ばれている)があったということだ。 

アーリントンメモリアルブリッジから墓地を望む
体が少し回復したところで、墓地を後にメモリアル アベニューをポトマック川へ向かった。
 川は結構幅があった。Arlington Memorial Bridgeに差し掛かり半ばくらいまできたところで、小雨が降り始めた。急ぎ足で渡り切ったところは、リンカーン記念館の裏だった。


 



 

0 件のコメント:

コメントを投稿