第2次世界大戦記念碑・・・遠くにリンカーン記念館が見える |
【余談】 記念碑は、クリントン大統領時代にある退役軍人が発起し、連邦政府の資金と民間の寄付を募って建設され、2004年5月29日にブッシュ大統領が除幕式を行ったという、比較的新しいものだった。
記念碑は、もともとあったレインボー・プール(噴水のところ)を取り囲むように、西側に設置されたフリーダム・ウォールFreedom Wall、南北に大西洋Atlanticと太平洋Pacficと名付けられた半円形のアーチ(高さは11m余)、その間に立つ56本の柱から構成されている。
フリーダム・ウォールは、4048個の金色の星が嵌め込まれ、1つの星は100人の戦士した兵士を表しているとのことである。また、56本の柱は、大戦当時の48州と参戦した地域や植民地を合わせた数だそうだ。この記念碑を巡っては、アメリカ国内で、様々な論争があったようだ。僕には、これらが何を象徴しているのかよくわからなかった。
ワシントン記念塔 西面 |
【余談】 起工から建立まで40年近くかかっている。南北戦争とか、財政上の事情、その他議会の方針変更、記念石の扱い、推進母体の変更や図案の見直しなど様々な問題が起こり、長く工事が中断されたためである。その痕跡が、基壇から3分の1くらいのところで、大理石の色が変わっていることに表れているそうだ。明るい色の大理石のところまでが、工事が中断するまでに建設された。
近づくとさすがに高く、巨大だということが実感された。中に入って上ることができるが、この日の入場整理券はなくなっていた。整理券は早朝に配布されるほか、インターネットでも予約できるようで、事前によく調べておけばよかったと残念な思いがした。通路に沿って一周したのち、ここを離れた。
昼飯を食べないまま歩き続けたこともあり、空腹と喉の渇きを癒すため、最寄りのアメリカ歴史博物館へ急いだ。朝からアーリントン墓地⇒ポトマック橋⇒リンカーン記念館⇒ワシントン記念塔へと歩いてきたことで、すっかり疲れたようだ。
戦時中の在米日系人に関する展示 |
ガイドによれば、館内のフロアは地上3階、地階1階からなり、およそ1~3階の西半分は2015年から2017年にかけてオープンする予定で、他にも未公開の部屋があった。まず、エレベーターで3階に上り、順次階を下った。
テーマ別に部屋が区分され、展示されていた。3階には、大統領とファーストレディを紹介する部屋があり興味深く見学したが、感銘を受けるほどではなかった。
残念ながら特別に注目したものはなかったなかで、第2次世界大戦のコーナーで、ルーズベルト大統領が手を入れた対日宣戦のドラフトや在米日系人を収容したことを報じる記事や写真の展示を見つけた。当時、在米日系人を収容したことに対し、1990年代に至ってアメリカが謝罪し補償したことが思い起こされた。こうした展示からアメリカの在り様の一端を窺うことができるのだろうか、現代のアメリカ人、例えば見学に来た小中学生たちはどのように見ているのかなどを考えながら、遠くに見える収容所と思われる写真を注視した。
ホテルに戻ることにして、12St.を北へ歩いていると、E St.の東北角にバーンズ&ノーブルBarnes & Nobleという大きな看板がかかった書店があった。中に入ると、2つのフロアにぎっしり書籍が並んでいた。ハードカバーの本はその厚さと重さに迫力がある。絵本コーナーで土産品になるような手ごろなものはないかと探したが、見つからず(疲れが相当たまっていて、集中できなかった)手ぶらで出て、ホテルへ向かった。
ホテルに戻り、一眠りした。少し眠ったつもりだったが、目覚めた時は7時をまわっていた。急いで荷物を片づけ明日の帰国に備えた。1階のレストランで、夕食を摂った。最後の夜でもあるので、ステーキと思ったが、あれこれ見た末に、ミートローフを注文した。ニューヨーク最後の夜、注文したポークチョップが大きく2本もあって食べ残したが、ワシントンでは気持ちよくすべて食べ終えた。フロントで、ダレス空港までのシャットルバン(ホテルまで迎えに来てくれる乗合タクシー)を予約してもらい、ついでにモーニングコールを頼んでおいた。部屋に戻り、風呂に入って疲れを癒した。ワシントンの4日間を振り返るうち、眠ってしまった。
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