2015年8月27日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(12) 5月29日(金)午後 ペルガモン博物館(1) 古典古代や近東の世界へタイムスリップ



 ようやく川岸に着いて、Pergamon Museumペルガモン博物館への橋の近くに来たところ、改修工事のため通行止め、やむなくボーデ通りにかかる橋を渡り、新博物館と旧ナショナルギャラリーの間を通って、博物館に辿り着きました。
中央:工事中のペルガモン博物館 左:新美術館 右:旧美術館
【余談】 この博物館は、北側にボーデ博物館Bodemuseum、東側に旧美術館Alte Nationalgalerie、南側に新美術館Neuesmuseumがあり、これらに囲まれていますが、これらの3つの建物が1830年から1876年の間に建設されていたところへ、新たに初代の博物館が建設されました。1910年に工事が始まり、30年に完成したそうです。その後、第2次世界大戦の戦災に遭い、「甚大な被害」を受けたため、再開するのは1959のことだそうです。

 中に入ってからわかったことですが、中央ホール及び北翼Wingは改修工事のたは見られませんでした。見学できたのは、南翼Wingの2階と1階のみで、それでも、結構興味深く鑑賞することができたと思います。

 収蔵品は、
(1)Collection of Classical Antiquities(古典古代、ギリシャ・ローマ)、
(2)Ancient Near East(中近東)、
(3)Islamic Art(イスラム芸術品)
の3ジャンルに大別されています。これらの収蔵品から選ばれたものが、南翼の1階(ギリシャ・ローマと中近東),2階(イスラム芸術品)に展示されていました。

 0階(グラウンド階)から入り、入場券(12€)を買い求め、ロッカーに荷物を預けてから、1階(日本式では2階)に上がりました。

 東寄りの部屋ミレトスホールMiletus Hallには、(1)の二つの構造物が展示されていました。

 その一つは、トラヤヌス神殿のものです。トルコのヘレニズム時代の都市ペルガモン(博物館の名称はこれに由来する)のアクロポリス遺跡にあったものを復元したものでした。
1F・ミレトスホールの東壁 トラヤヌス神殿
 もう一つは、ミレトスホール西壁の構造物ミレトスの市場門the Market Gate from Miletusです。
1F・ミレトスホールの西壁 ミレトスの市場門 上部
 二つの構造物はいずれも、1945年、戦争で大きなダメージを受け修復されましたが、修理されましたが、戦争の傷跡が生々しく、修復に注がれた熱意とエネルギーを強く感じました。

【余談】 ペルガモン、ミレトス、いずれも小アジア(現トルコのアナトリア地方)で、ギリシャのエーゲ海を挟んだ対岸にあった植民都市ですが、19世紀の始め、ナポレオン戦争に勝ったドイツ(当時、プロイセン)がどのような経緯で発掘したのか知りたいところです。また、改修工事中の、ペルガモンの大祭壇が見られなかったことも残念なことの一つです。

2015年8月16日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(11) 5月29日(金)午後 焼うどんを食べてから、hへーゲルの銅像に遭う

 地下鉄に乗り、フリードリッヒ通り駅で下り、地上に出たところに、ファストフード店がありました。やれやれと思いながら、みそ味のソースをからめた焼うどんを食べました。何とも言いようのない味のうどんでした。
フリードリッヒ通り駅のファストフード店で食べた焼うどん
食べ終えてゆっくり休むこともなく、地図を頼りに、博物館の島と呼ばれるシュプリー川の中州にあるPergamon Museumペルガモン博物館を目指し、フリードリッヒ通りを歩き始めました。

 通りを少し南へ歩き、Dorontheen通りと交差するところで左に折れ、シュプリー川に向かっていたところ、フンボルト大学ベルリンの北側にあるHegelplatzと呼ばれる広場でヘーゲルの胸像に出会いました。
ヘーゲル広場の胸像
ヘーゲル(1770年8月27日-1831年11年14日)は、1818年、48歳のときにベルリン大学(現フンボルト大学ベルリン)の正教授となり、彼の講座は「絶大な人気を誇る」ようになったということです。同時間に、ショーペンハウアーが行った講義を聴講する学生たちは少なかったと言われています。

 さらに、1830年、60歳のときに、時のプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世から総長に任命されています。しかし、翌年、コレラに感染し、翌1931年亡くなりました。

【余談】 教養部のころ、論理学を学んでいた折のことが思い出されました。弁証法のことです。正・反・合、命題thesis、反対命題antithesis、統合した命題synthesis、止揚aufhebenといった論理で、あらゆる現象を理解したり、あるいは説明したりすることできると思ったものでした。

 フランス革命(1789年)からナポレオン戦争(1803年ー1815年)と言う時代、プロイセン王国にあって、ヘーゲルがどのように学び成長したのか、ウィキペディアに書き込まれた様々なエピソードを読むと興味は尽きません。
 
 ところで、フェンスに貼られたポスターには、”Rassismus im duetschen Bildungssystem" (ドイツ教育システムにおける民族主義という意味か?)と書かれていましたが、ヘーゲルと何らかの関わりがあるのでしょうか。

2015年8月13日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(10) 5月29日(金) ベルリンの壁記録センターを見る

 あるガイドブックに、壁を確かめることができる3施設が紹介されていました。そのなかの一つ”die Gedenkstatte Berliner Mauer"ベルリンの壁記念記録センターへやってきました。

 地下鉄を下り、進行方向の出口から地上に出ると、右手の方向に人だかりと壁らしきものが見えました。
 
 ベルリンの壁記念記録センターが保存している壁は、Bernauerベルナウアー通りに沿った1.4km、AからDまでの4エリアに分けられています。
Aエリア 屋外展示のスタート地点 左:東側 右:西側
【余談】 在日ドイツ総領事館のホームページに、『ベルリンの壁Q&A』が掲載されています(下記※参照)。
 これによれば、壁の全長は155km、高さは3.6m、「ベルリンの中心部を横切る形で西側部分をぐるりと取り囲み、町の西側部分を東ドイツから切り離してしまいました。」と記されています。また、1961年8月13日に建設され、1989年11月9日に破壊され、壁が存在した期間は、28年2月27日ということです。
※在日ドイツ総領事館 http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/Startseite.html

 Aエリアの中央辺りに、"Fenster des Gedenkens"(回想の窓)に多くの人々が見いっていました。窓には、個々人に記憶されている壁の犠牲になった人々の顔写真が貼りつけられていました。

そこには、大人の男女に混じって、若い成年や小さな子どもの顔が見られました。
 
Fenster des Gedenkens(回想の窓)
壁の構造を示す掲示を見ると、東Ost側(いわば内側)には、壁を乗り越えて西側へ逃亡することを防ぐため、様々な仕掛けや設備、緩衝地帯、パトロール用通路、監視塔、そしてもう一つの内壁が設置されていました。当初の「壁」は、有刺鉄線で作られ、約6時間ではりめぐらされたようです。
 その数回作り直され、最後は、1975年で、L型コンクリート板Segmentsを鉄骨柱と蒲鉾型の覆いによって固定していたと思われました。
壁の構造 右下:西側 左上:東側
解体後のコンクリート板が何枚か展示されていました。雑草が生い茂り、歳月が通り過ぎていることを物語っていました。
壁のコンクリート板
壁によって分断されたことによる最大の悲劇は、西側から東側へ壁を越えて逃亡した人は少なくなく、その犠牲が絶えなかったことです。

 前記『ベルリンの壁Q&A』によれば、犠牲者は136人とされています。壁が存続した期間を28年余りとすると、毎年5人弱の人が犠牲になっていたことになります。

 先に、壁の構造について述べたような逃亡を防止しために講じられていた仕掛けや設備の一つDornenmatten棘のマットが、記録センターに展示されていました。
棘のマットDornenmatten
  これの展示説明によれば、これの外、逆茂木(さかもぎ)Hochespern、通行を妨げる堀(壕)Sperrgraben、監視豪Erdbeobachtungなども設置されていました。

 1階の展示を見てから、エレベータで3階に上り屋上に出ましたた。

【余談】 そこからは、ベルナウアー通りに沿って、壁が続いている状景が見渡せました。その場に立って感じたことは人間の愚かさでした。
記録センター屋上から 左下:西側 右上:東側
次の目的地へと進む前に、昼食をと思い、地下鉄のノルトバーン駅へ向かって歩き始めました。ところが、それらしいレストランが見当たらず、あきらめて先へ進むことにしました。

2015年8月2日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(9) 5月29日 ブランデンブルグ門を見る


ブランデンブルグ門正面 パリ広場から
記念碑前の道が行き止まりになっていたため国会ビル南側の通りに戻り、Brandenburger Torブランデンブルグ門へ向かいました。
 
 正午に近く、門の西側は何かのイベントのための工事で道路が制限されたため、車が混み合っていました。観光客が多く、ベルリン一と言われる観光スポットであることが実感されました。
 
 建立されたのは1788~1891年、プロイセン王国の凱旋門だそうです。門の上には、勝利の女神ヴィクトリアと4頭立ての馬車が乗せられています。

 門は戦災で大きく損傷しましたが、大変な資金を投じて修復されました(2000年12月竣工)。東西に分断されていた時代、壁が西側に張り出すように構築されたため、東側に属していました。

【余談】 門の上の4頭立ての馬車Quadrigaクアドリガは、1806年にプロイセン軍を破りベルリンを占領したナポレオンが戦利品としてパリへ持ち帰ったけれども、1814年にはプロイセン軍にパリが占領され、ベルリンに戻ったという歴史を持っています。
 女神が右手にもつ杖には、鉄十字紋章が取り付けられています。この杖の紋章は、東独時代、オリーブの枝で作ったリースに取り換えられていたというまことに政治的な出来事があったようです(鉄十字紋章に戻されたのは、東西統一後の大規模に改修された時だそうです)。

ブランデンブルグ駅
そろそろ昼食を食べたいと思いながら、ウンターリンデン通りを東へ歩いていると、有名なホテルのレストランが目に入りましたが、通り過ぎ、地下鉄へ下りていく階段がありましたので、次の目的地ベルリンの壁記録センター辺りで食べようと考え、そのまま階段を下っていきました。

 ホームは地上とはまるで異なり、人影は非常に少なく驚きました。この駅は、S1、S2、S25の3経路の電車が走っているはずなのにです。

 入ってきた電車の行き先を確かめてから乗車し、Nordbahnhof駅へ向かいました。前夜、乗ってきた経路とは逆に進み、3つ目の駅で下車しました。