2015年8月16日日曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(11) 5月29日(金)午後 焼うどんを食べてから、hへーゲルの銅像に遭う

 地下鉄に乗り、フリードリッヒ通り駅で下り、地上に出たところに、ファストフード店がありました。やれやれと思いながら、みそ味のソースをからめた焼うどんを食べました。何とも言いようのない味のうどんでした。
フリードリッヒ通り駅のファストフード店で食べた焼うどん
食べ終えてゆっくり休むこともなく、地図を頼りに、博物館の島と呼ばれるシュプリー川の中州にあるPergamon Museumペルガモン博物館を目指し、フリードリッヒ通りを歩き始めました。

 通りを少し南へ歩き、Dorontheen通りと交差するところで左に折れ、シュプリー川に向かっていたところ、フンボルト大学ベルリンの北側にあるHegelplatzと呼ばれる広場でヘーゲルの胸像に出会いました。
ヘーゲル広場の胸像
ヘーゲル(1770年8月27日-1831年11年14日)は、1818年、48歳のときにベルリン大学(現フンボルト大学ベルリン)の正教授となり、彼の講座は「絶大な人気を誇る」ようになったということです。同時間に、ショーペンハウアーが行った講義を聴講する学生たちは少なかったと言われています。

 さらに、1830年、60歳のときに、時のプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世から総長に任命されています。しかし、翌年、コレラに感染し、翌1931年亡くなりました。

【余談】 教養部のころ、論理学を学んでいた折のことが思い出されました。弁証法のことです。正・反・合、命題thesis、反対命題antithesis、統合した命題synthesis、止揚aufhebenといった論理で、あらゆる現象を理解したり、あるいは説明したりすることできると思ったものでした。

 フランス革命(1789年)からナポレオン戦争(1803年ー1815年)と言う時代、プロイセン王国にあって、ヘーゲルがどのように学び成長したのか、ウィキペディアに書き込まれた様々なエピソードを読むと興味は尽きません。
 
 ところで、フェンスに貼られたポスターには、”Rassismus im duetschen Bildungssystem" (ドイツ教育システムにおける民族主義という意味か?)と書かれていましたが、ヘーゲルと何らかの関わりがあるのでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿