2015年8月13日木曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(10) 5月29日(金) ベルリンの壁記録センターを見る

 あるガイドブックに、壁を確かめることができる3施設が紹介されていました。そのなかの一つ”die Gedenkstatte Berliner Mauer"ベルリンの壁記念記録センターへやってきました。

 地下鉄を下り、進行方向の出口から地上に出ると、右手の方向に人だかりと壁らしきものが見えました。
 
 ベルリンの壁記念記録センターが保存している壁は、Bernauerベルナウアー通りに沿った1.4km、AからDまでの4エリアに分けられています。
Aエリア 屋外展示のスタート地点 左:東側 右:西側
【余談】 在日ドイツ総領事館のホームページに、『ベルリンの壁Q&A』が掲載されています(下記※参照)。
 これによれば、壁の全長は155km、高さは3.6m、「ベルリンの中心部を横切る形で西側部分をぐるりと取り囲み、町の西側部分を東ドイツから切り離してしまいました。」と記されています。また、1961年8月13日に建設され、1989年11月9日に破壊され、壁が存在した期間は、28年2月27日ということです。
※在日ドイツ総領事館 http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/Startseite.html

 Aエリアの中央辺りに、"Fenster des Gedenkens"(回想の窓)に多くの人々が見いっていました。窓には、個々人に記憶されている壁の犠牲になった人々の顔写真が貼りつけられていました。

そこには、大人の男女に混じって、若い成年や小さな子どもの顔が見られました。
 
Fenster des Gedenkens(回想の窓)
壁の構造を示す掲示を見ると、東Ost側(いわば内側)には、壁を乗り越えて西側へ逃亡することを防ぐため、様々な仕掛けや設備、緩衝地帯、パトロール用通路、監視塔、そしてもう一つの内壁が設置されていました。当初の「壁」は、有刺鉄線で作られ、約6時間ではりめぐらされたようです。
 その数回作り直され、最後は、1975年で、L型コンクリート板Segmentsを鉄骨柱と蒲鉾型の覆いによって固定していたと思われました。
壁の構造 右下:西側 左上:東側
解体後のコンクリート板が何枚か展示されていました。雑草が生い茂り、歳月が通り過ぎていることを物語っていました。
壁のコンクリート板
壁によって分断されたことによる最大の悲劇は、西側から東側へ壁を越えて逃亡した人は少なくなく、その犠牲が絶えなかったことです。

 前記『ベルリンの壁Q&A』によれば、犠牲者は136人とされています。壁が存続した期間を28年余りとすると、毎年5人弱の人が犠牲になっていたことになります。

 先に、壁の構造について述べたような逃亡を防止しために講じられていた仕掛けや設備の一つDornenmatten棘のマットが、記録センターに展示されていました。
棘のマットDornenmatten
  これの展示説明によれば、これの外、逆茂木(さかもぎ)Hochespern、通行を妨げる堀(壕)Sperrgraben、監視豪Erdbeobachtungなども設置されていました。

 1階の展示を見てから、エレベータで3階に上り屋上に出ましたた。

【余談】 そこからは、ベルナウアー通りに沿って、壁が続いている状景が見渡せました。その場に立って感じたことは人間の愚かさでした。
記録センター屋上から 左下:西側 右上:東側
次の目的地へと進む前に、昼食をと思い、地下鉄のノルトバーン駅へ向かって歩き始めました。ところが、それらしいレストランが見当たらず、あきらめて先へ進むことにしました。

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