2016年9月30日金曜日

独仏伊一人旅(11) 5月28日(土)午後 ニュルンベルグ裁判の跡を訪ねる

ニュルンベルグの旧市街を離れ、西隣のヒュルトFürth地区にある裁判所に向かった。裁判所はヒュルター通りに面し、その東翼が記念館として公開されていた。

【余談】 なぜこの裁判所が選ばれたのか、その理由として、①ニュルンベルグが党大会が開催されるなどナチスの象徴的な都市であったことのほか、②連合軍の空襲による被害が比較的に軽微であったことがあげられているそうだ。裁判所のなかで最も広かった東翼3階の法廷が改修され、600号法廷として使用された。
Memorium Nürnberger Prozesse
西(左)寄りの入り口を入った左隅に受付カウンターがあり、2人の女性が応対していた。5€を支払い、記念館のリーフレットThe Nuremberg Trials The exhibit-A summary」(展示の概要、24頁)と裁判に関する小冊子「The Nuremberg Trials A Short Guide(ニュルンベルグ裁判 ショートガイド、72頁)(いずれも英語版)を購入した(8.8€)。


エレベータで3階に上ると、テーマ別に写真と説明を表示したパネルが展示されていた。この裁判と記念館の由来から、起訴、被告、判事団と検事団、弁護人、証言と証拠、判決、その後の裁判、ハーグにつながる動き、と順番に見ていった。展示の最後のところで、小さな窓があった。そこから、600号法廷のモデルを見ることができた。

【余談】 この法廷は裁判当時のままではなく、1961年、ドイツに返還された後、バイエルン州司法当局は改修部分を取り払い復元し、現在も主要な犯罪の裁判の際に使用されているという。
現在の600号法廷(1)
現在の600号法廷(2)
当時との違いを知るため、パンフレットに収録された写真を載せておく。

(1)裁判所と囚人棟 

 中央が裁判所で、右(東)寄りに東翼の建物が見える。中央奥(裁判所の裏手)は囚人棟という。裁判所と囚人棟とは木製の歩廊で繫がっていたようだ。
全景(1945/46) 
(2)裁判所東翼

 3階の4つの窓がある部屋が改修され、600号法廷となった。米軍の兵士(MP?)が行進するなど警備の物々しさ、緊張感が漂っていて、セキュリティが重視されていたと思われる。手前右側の空き地は米軍の駐車場として使用されていた。
裁判所東翼の前景 左は米国・ジャクソン主任検事の言葉。
(3)改修後の法廷

 右手が判事席、これに対し左手に被告席が配置されていた。手前の演台に向かって検事が論告し、中央奥の証言台で被告や証人が意見や証言を述べたようだ。
600号法廷(改修後) 
【余談】 旅行前にニュルンベルグ裁判に関する本を読んでいたが、付け焼刃で、現地では思い出すこともなく役に立たなかった。というわけで、ここまでの記述は、現地で購入したリーフレットと小冊子を参考にした。後半の写真3枚はリーフレットから引用した。

3時半を過ぎ、記念館を出て帰ることになったが、途中、ロマンティック街道の古い町の一つ、ローテンブルグRothenburg ob der Tquberに寄っていった。



2016年9月17日土曜日

独仏伊一人旅(10) 5月28日(土) ニュルンベルグの街歩き

党大会会場から城内に入った。ペグニッツPegnitz川に近い駐車場に車を停め、街並や人々が集い、買い物をしたり、食べたりしているところを眺めながら、レストランを目指して歩いた。
Heubrücke ホイ橋
川べりの歩道を歩き、ケーニッヒ通りに出て美術館橋を中央広場Hauptmarktの方向へ渡った。
Museumsbrücke 美術館橋
渡ってほどなく通りの真ん中に置かれた不思議な彫刻に出会った。Narrenschiffbrunnen 愚か者の船噴水といい、1984-1987年に、あるパトロンが彫刻家Jürgen Weberに作らせたようだ。船の形はしているものの愚か者とは何を指すのか人間か動物か、また、噴水というがそれらしい仕掛けは見られなかった。見る角度によって多様な姿が見えてくる彫刻だった。
Narrenschiffbrunnen 愚か者の船噴水
中央広場に至りました。古風なフラウエン教会Frauenkircheの前にあり、広場には様々な市が開かれているようで、当日は花と野菜の店が出展していた。
フラウエン教会前の中央広場
これらの店を横目で見ながら先へ進み、目的のレストランZum Spießgesellenに辿り着きました。中に入ると広いフロアにお客の姿はほとんど見られなかったが、落ち着いた雰囲気であった。Tucherビールを飲みながら、息子からドイツでの生活の様子や思いを聞いた。
昼食を食べたレストランの外
食べ終わり、レストランの前の通りをお城Kaiserburgに向かって歩きだした。上り坂で、ビールの酔いもあって息が切れそうだったが、城壁の内側、市街が見渡せるところまでのぼった。
カイザーブルグKaiserburg
城壁から見た市街地は、先の大戦で街並みの90%が破壊されたと言われていることが信じられないような風景であった。
Kaiserburgから見た市街
野菜や果物を売る店があり、旬のホワイトアスパラガスが並んでいた。マーケットが住民の生活に溶けこんでいると思った。
中央広場 太いホワイトアスパラガスが旬
中央広場から来た通りを戻り、美術館橋を渡って、少し上り坂になったケーニッヒ通りkonigstr.を進むとローレンツ広場Lorenzer Pl.に至った。広場の東側には、聖ローレンツ教会の塔がそびえていた。
聖ローレンツ教会 Si.Lorenzer Kirche
教会前の広場には、仮設の舞台が設置されていたり、また、様々な店が開いていたり、大勢の人で賑わっていた。そうした広場の一角で、街のミュージシャンが軽快な曲を奏でていた。
ストリート・ミュージシャン
教会には入らず、駐車場に戻り、次の目的地ニュㇽンベルグ裁判の法廷跡を訪ねることにした。

2016年9月7日水曜日

独仏伊一人旅(9) 5月28日(土) ニュルンベルグを訪ねる

今日は、昨日のボンに続いて、第2次世界大戦後のドイツを見る、そして古城街道の古い街を訪ねる計画である。まず、ニュルンベルグNürnbergを訪ねた。

9時過ぎに家を出て、アウトバーン6号線を走った。最初に着いたのは、ナチス党大会場Dokumentationszentrum Reichspartaitagsgeländeである。10時を少し回ったところで、1時間ほどで着いたことになる。

入り口がなんとも奇妙な形で、階段と屋根で人を飲み込むように、大会場の北翼2階に直接入れるように取り付けられていた。5€を支払って入った・案内所でパンフレットを入手し、それから順路に沿って見学した。様々な遺物やパネルが展示されていた。文字通り”Schule im Nationasozialismus"国家社会主義(ナチス)に関する学習施設であった。土曜日であったから、教師に引率された学生や生徒の姿は見られず、大人が多かった。
入り口への階段
ヒットラーの良く知られた、しかもサイン入りの著書が展示されていた。
Mein Kampf 我が闘争
ナチス党大会を伝えるポスターの一つ。中央のコイン状のものに1939の刻印がある。同年9月2日開催されるはずだったが、第2次世界大戦勃発のため、まぼろしの大会となった。右下の写真は、進軍する兵士が撮ったものか。
全国党大会のポスター(まぼろしの大会となった1939年らしい)
展望用バルコニーから見た大会場の内部は、外壁とは異なり、レンガ造りであった。地上の北翼と南翼の間、湖に面した正面に当たるところから入ることができたらしいが、我々が外周を回った時は、扉が閉まっていて気づかなかった。
大会場の跡
展示場を出て南翼の建物(ニュルンベルグ シンフォニーの看板が見られた)をまわると、U形部の回廊が続いていた。
外周部の回廊
2001年開館時の全景(パネル)

地域の全景(パネル)

パネルの右下隅に、「着色された部分はもはや存在しない。それらは、完成も取り壊しも決してされることはない」と書かれている。固い決意が感じられる。
大会場の左上 ツェッペリン・フィールド、右 偉大な通りGloss Str.
広大な構想のもとに施設や道路が配置されようとしていたことが分かる。戦争開始とともに未完に終わった。
入り口の案内板
【余談】 党大会の会場として1923-1938年の間使用されただけに、徹底的に破壊されたに違いないと思われたが、現在の姿に修復する意志、エネルギー、資金力に驚嘆する。

時計をみると11時を回っていた。そこで、中心市街地へ向かった。