2017年12月5日火曜日

独仏伊一人旅(51) 6月5日(日)午前 アッピア街道を歩く(1)

6時に目が覚め、顔を洗ってから朝食を食べに行った。今日もかなり歩くことになりそうなのでしっかり腹に収めておいた。

8時過ぎホテルを出発、地下鉄テルミニ駅からAラインに乗りコッリ・アルバー二Colli Arbani駅で下車した。地上に出るとバス停が目の前にあった。バスのチケット売り場が見当たらなかったため、やむなく地下鉄のチケットを出したところ乗ることができた。予め調べておいた600番のバスが来たので乗車した。

バスは市街地を右左に曲がりながら通り抜け、チェチリア・メテッラ通りVia di C.Metellaに入りアッピア・アンティカ街道(旧街道)Via Appia Anticaに突き当たったところが終点で下車した。

バスを降りた丁字路の一隅にカフェAppian Way Cafeがあったので、サンドイッチと水を買い歩き始めた。最初の目的地はMausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟である。
 アッピア街道(旧街道)Via Appia Antica
【余談】アッピア街道(旧街道)Via Appia Anticaは、紀元前312年アッピウス・クラウディウス・カエクスによって建設され、起点はローマ市内のサン・セバスティアーノ門で、その後前244年までにプルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延ばされた。全長560kmという。街道には1マイル(ローママイル、1000歩、約1.48km)ごとに大理石のマイルストーン(里程標)が建てられたといわれ、現存しているそうだ。
ちなみに、訪ねたMausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟は起点から3マイルほどのところにある。マイルストーン1から10まではアッピア街道州立公園内を走っている。
1784年にアッピア街道(旧街道)Via Appia Anticaと並行して走る道路が建設され、こちらはVia Appia Nuovoと呼ばれている。

石を敷き詰めた通りを歩くことは楽ではない。凸凹があって躓きそうになることもあった。よく見ると石のなかには荷車や馬車、あるいは戦車のわだちですり減ったものもあって時代を感じさせたが、敷き詰められて整っている様子から敷き直されたと思った。
アッピア旧街道の表示
しばらく歩いて、Mausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟に着いた。街道の東北側にあった。
チェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟の全景
【余談】この霊廟に眠る人物はローマの貴婦人、紀元前69年執政官ConsulであったQuintus Caecilius Metellusチェチリア・メテッラの娘という。

円形の墓tomb
建物に比して入り口は小さかった。階段を上って入ると直ぐ右手に受付のような小屋があった。
入り口
そこで、入場券を求めたが、この日は6月第1日曜日に当たりすべての公共施設が無料開放されていたので、支払わずに入場できた。
入り口から入ったところ
様々な出土品が展示されていた。
展示物(1)

展示物(2)

展示物(3)
円形の墓の内部をのぞいてみた。
円形の墓の内部
建物の内部を紹介しよう。1階と地階が開放されていた。
建物の内部(1)

建物の内部(2)

建物の内部(3)
古代の建造物として紀元前に遡るということで驚くばかりであったが、石棺が見あたらなかった。見落としたのかそれとも別の博物館などに保管されているのだろうか。
ともあれ、先へ進むことにして再び街道を南へ歩き始めた。

2017年11月18日土曜日

独仏伊一人旅(50) 6月4日(土)夕刻 サン・ピエトロ大聖堂を出て地下鉄オッタヴィアーノ駅へ

外で出た。時計を見ると6時に近づいていたが空は青く、サンピエトロ大聖堂の影が長く広場まで届いていた。
サンピエトロ広場
【余談】広場は幅240mの楕円形で、中央にオベリスク(塔)が建てられ、周りを4列372本のドーリア式円柱による列柱廊が取り囲んでいた。広場には円柱の中心centro del colonnatoというマークがつけられた「特定の場所」があって、そこに立つと4本の円柱が1本に見えるそうだ。

右(南)の方にちょっとした人だかりができていたので好奇心で歩いていくと、衛兵の交代かと思われる場面だった。
衛兵の交代か? 
さすがにこの時間では、コンチリアツィオーネレ通りに巡礼者の列はなくなっていた。
巡礼者の参道 コンチリアツィオーネレ通り
帰りは地下鉄Aライン・オッタビアーノ駅から乗ることにして、バチカン美術館の壁に沿って進んだ。このルートを選んだ結果、サンタンジェロ城に寄ることができなかった。
バチカン宮殿の壁
ついでに美術館の出口を確かめておこうと思い寄り道をした。壁をくりぬくようにつくられていたので、意外に思った。
バチカン美術館の出口
地下鉄Aライン・オッタヴィアーノ駅への入り口にようやく辿り着いたが、乗り降りする人は少なく、ホームでも人の姿はまばらだった。
Aラインオッタヴィアーノ駅への通路
ホテルに戻り少し休んでから夕食を取りに外出した。前日カヴール通りでホテルから少し離れた中華レストランの看板を見かけたGrande Secoloに入りイタリア風中華料理を食べた。
ホテルに戻り、翌日の工程(午前、アッピア街道。午後、フォロロマーノ)を確かめて就寝した。

2017年11月11日土曜日

独仏伊一人旅(49) 6月4日(土)夕刻 サン・ピエトロ大聖堂(2)内陣

(1)玄関廊(アトリウム)

地上に下りて改めて玄関廊に進んだ。円柱や角柱に支えられた天井を見ると金色に輝いているようだった。左側にはいくつかの扉が並んでいた。
玄関の天井
 (2)聖年の扉(聖なる扉とも、Porta Santa)

アトリウムから内陣に入る5つの扉のうち右端の扉は聖年の扉と言われる。2016年(2015年12月8日~2016年11月20日)は特別聖年とされ、扉が開かれていた。通るには予約が必要だったようで、僕は入れなかった。
聖年の扉
【余談】聖年は1300年に始まり、25年ごととされている。前回は2000年で大聖年とされた。聖年の年にこの扉は開かれるが、通常は内側に塗り固められているという。
2016年は就任2年となったフランチェスコ教皇によって特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)とされ、この年は「信者はが特別の赦しを与えられる」とされ、聖なる扉が開かれ巡礼者が多くなるそうだ。

(3)後陣 玉座の祭壇(聖ペトロの司教座とも)

上部へ上ったときに撮影した写真だが、見たところすでにミサが始まっていたようでかなりの数の信者が祈っていた。
上部から見た後陣 玉座の祭壇
 (4)クーポラ(Cupola ドーム)

まことに見事なものだ。中央の丸い穴のように見えるところは明り取りであろうか。
クーポラの丸天井
 (5)上部の回廊

エレベーターをおりたところで回廊があった。窓から光が差し込んでいた。回廊は2/3くらい歩くことができたが、金網が張られていて1階の床を見下ろすことはできなかった。この写真とこの前の2枚はともにその網の目から撮ったものだ。
上部の回廊
(6) 青銅製の大天蓋(パルダッキーノ)

内陣の中央部、クーポラの真下に青銅(ブロンズ)製の大天蓋(パルダッキーノ)があった。ねじれ状の柱の間を通して玉座の祭壇が見えた。中央のステンドグラスが輝いていた。表面の色が黒ずんでいたためか、ちょっと異様な感じがした。
青銅製の大天蓋
【余談】大天蓋はウルバヌス8世(教皇の在位1623‐1644年)の命で1924年に着手、1933年に完成したという。この天蓋の真下には聖ペトロの墓があるそうだ。設計・製作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニという人で、大聖堂のいろいろな箇所で仕事を残している。

(7)身廊 上部から差し込む西日
身廊 上部から差し込む西日
時計をみると6時近くになっていた。見どころはまだまだ沢山あるようで残念だったが、歩き疲れた見てまわる元気がなく外へ出た。

2017年10月24日火曜日

独仏伊一人旅(48) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂(1)クーポラの展望台から 

サンピエトロ大聖堂

(1)バチカン宮殿への大扉

大聖堂に向かう途中で見た、17世紀に造られたブロンズ製の大扉である。長い槍を持った衛兵が守備していた。
バチカン宮殿への大扉
【余談】衛兵はスイス人の傭兵だそうで、創設は1506年、ユリウス5世の時代という。制服の色、青・黄・赤はメディチ家の色だとか。

(2)クーポラCupola(ドーム)の展望台から

大勢の人が大聖堂に入っていた。案内表示に従って大聖堂の上部へのエレベーターとクーポラの展望台に上るチケット売り場に進み、購入した(8€)。
上部に着いて周りを回ったのち、いよいよ階段を上り始めた。何段あるのか(320段とか)、だんだん狭くなり、最後にはまっすぐ立てず壁に手をつきながら黙々と上った。
歩廊を回りながらローマ市内を遮るものもなく一望することができた。
前方中央の通りが巡礼者が大聖堂を目指して進んでくるコンチリアツォーネ通りという。その先にテベレ川が見えた。右手はるか前方にはコロセウムも見たように思う。

クーポラの展望台から眺望
歩廊を北方向に回ると、先ほどまで見学していたバチカン美術館の全景が見えた。右下に半分ほどだがシスティーナ礼拝堂の屋根が見えた。中央前方には、ピィーニャの中庭も見えた。中央に見えるのは入らなかったけれどもベルヴェデーレの中庭だ。
バチカン美術館
西方向を見ると、法王庁の建物が見下ろすようなところにあった。西日を背に受けてやや暗い感じがしたが、緑の庭園にあってバチカン市国政庁でありカソリック教会総本山ともいえる威厳を備えているように見えた。
法王庁
清々しい気分になって、クーポラの階段を降り、エレベータで地上に戻り、堂内を見学した。

2017年10月17日火曜日

独仏伊一人旅(47) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂へ移動する道すがら 

外へ出て見ると、朝来た城壁沿いの歩道には美術館に向かう長蛇の人の列が並んでいた。その人たちと逆行するように、サン・ピエトロ大聖堂へ向かって歩きながら昼飯が食べられるカフェは探した。教皇庁への入り口サンタンナ門の前で、ボルゴ・ピオ通り Borgo pioに左折してすぐ右側にカフェ・ サンタンナCaffe' Sant' Annaがあった。

料理とアメリカンを注文して待っていると出てきた料理がこれだ。何という名前だったか忘れたが、レシートを見ると12.5€だった。空腹だったから骨を残すだけですっかり食べた。
何という料理?
さて、テーブルの隅にあったつま楊枝の入れ物に、”OSAKA”と印刷されたラベルが貼ってあって、興味が引かれた。”500 Stuzzicadenti/ Extrafini ”は辞典によれば「500本のつま楊枝/ 極細」ということらしい。しかも両端が細く削られていた。
つま楊枝 ”OSAKA”
食べ終わりしばらく休んでから、大聖堂に向かった。

2017年10月15日日曜日

独仏伊一人旅(46) 6月4日(土)午後 バチカン美術館(7)インマコラータ(無原罪の処女マリア)の間、ラファエロの間、システィーナ礼拝堂

8.インマコラータの間 Sala dell'Immacolata

部屋の中央、壁寄りに無原罪の処女マリアの像が人々を見下ろしているように見えた。4面の大きなフレスコ画は、「1854年12月8日にマリアの無原罪の御宿りの教理が布告されたことを記念して、教皇ピウス9世に依頼された画家フランチェスコ・ボデスティにより、1858年に装飾された」という。
無原罪の処女マリア
9.ラファエロの間 Stanze di Taffaell

インマコラータの間の先がラファエロの間であった。4つの部屋を、教皇ユリウス2世の依頼を受けたラファエロとその弟子たちが1508年から1524年までにフレスコ画で装飾したそうだ。署名の間が最初で1508‐1511年と言い、ヘリオドスの間、ボルゴの火災の間、最後がコンスタンティヌスの間である。

コンスタンティヌスの部屋のフレスコ画は、「ラファエロの死後(1520年)、彼の下絵に基づき、弟子たちによってフレスコ画が装飾された」という。その中の2点を紹介したい。

(1)ミルウィウス橋の戦い Battaglia di Ponte Milvio

この戦いは、312年10月28日、2人の皇帝コンスタンティヌス1世とマクセンティウスが率いる軍の間で争われたいわば天下分け目の戦争である。激しい戦いの末、前者が勝利を勝ち、「ローマ帝国の西半分」を支配することになった(西方西帝というそうだ)。
ミルウィウス橋の戦い ジュリオ・ロマーノ
【余談】ミルウィウス(ミルヴィオ)橋はローマ北郊にあり、テヴェレ川にかかる重要な橋の一つ、フラミニア街道が通っている。

(2)コンスタンティヌス帝の洗礼

もう一つが、これである。コンスタンティヌス1世の在位は、西正帝として312‐324年、全ローマ皇帝として324-337年という。313年ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認した。かくてキリスト教の今日にいたる政治的社会的基盤を用意したことになった。
コンスタンティヌス帝の洗礼
【余談】ミラノ勅令は、312年2月にコンスタンティヌス帝(西方正帝)とリキ二ウス手帝(東方正帝)とミラノで会見した際に発っせられたとされ、キリスト教の信教の自由を認めた(全帝国市民の信教の自由を保障したとされる)。

10.現代美術コレクション Collzione Arte Religiosa Contemporanea

システィーナ礼拝堂に進んだつもりだったが、その入り口近くで、これまでとは全く異なる絵画をみることになった。ここには、バチカン美術館が保有する約700点の絵画、グラフィックアート、彫刻が含まれるコレクションの一部が展示されていた。

Pieta Rouge 赤いピエタ
Pieta rouge  赤いピエタ マルク・シャガール 1956年
【余談】ピエタは、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのち十字架から降ろされたイエス・キリストとその亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことを言うそうだ。

11.システィーナ礼拝堂 La Cappella Sistina

漸くたどり着いた。2時を過ぎていた。内部の装飾は、「宗教絵画のシリーズで最も複雑なものの一つ」ということだが、大勢の人々が行き交うなかで壁面と天井を埋め尽くす絵をただ眺めるばかりであった。
写真を撮ることができなかった。代わって、バチカン美術館公式サイトからシスティーナ礼拝堂をゆっくりご覧いただきたい。

2,30分くらい居たか、思いを決して出口に向かった。ショップで家族への土産品としてメモ帳を買ってからよく知られた渦巻形のスロープを下って外へ出た。

※バチカン美術館編は、ショップで購入した図録「ヴァティカン」(日本語版)その他の記載によった。

2017年9月28日木曜日

独仏伊一人旅(45) 6月4日(土)午後 バチカン美術館(6)タペストリーのギャラリーから地図のギャラリーへ

5.タペストリーのギャラリー Galleria delle Arazzi

タペストリーを両側に展示した通廊である。昼過ぎで、多くの人たちが見学していた。
タペストリーのギャラリー
幼児虐殺 The Massacre of the Innocents

取り上げられたテーマが何ともすさまじい。キリストをめぐる歴史の一コマ…マタイによる福音書など聖書に取り上げられた幼児虐殺のエピソードを織ったタペストリーで、ベルギーのブリュッセルにおいて1524-1531年ごろに織られたのものだそうだ。
幼児虐殺 ブリュッセル 1524‐1531年
Justice Faith(Relesion),Charity 正義の信仰(宗教)と慈悲

このタペストリーは、クレメント8世の勲章の装飾カバー Ornamental Cover of the throne of Clement Ⅷで、1523‐1534年に、ブリュッセルの作業場で織られたものだそうだ。横465cm、縦532cmと、大きい。2頭のライオンは「正義の信仰(宗教)と慈悲」を語っているという。
クレメント8世の勲章の装飾カバー ブリュッセル

6.地図のギャラリー Galleria delle Carte Geografiche

このギャラリーの天井画は絢爛豪華ということばが当てはまるほど、金色に輝いていた。天井画には「下の壁に描かれた地方と関係のある教会の歴史の重要なエピソードが表されている」そうだ。壁には、イタリヤ半島の都市や農村の地図が北から南へ展示してあった。向かって右側にはアドリア海側、左側にはティレニア海側の地図が展示されていたそうだ。
地図のギャラリー 金色に輝く天井画
Roma,per sacram B.Petri sedem caput orbis effecta ラティウムとサビーナ(ラティオ南部)、ローマ市

多数の地図が展示されていた中で、ローマ市の部分を拡大して描いた地図を紹介しよう。左下にローマ市の部分が描かれたこの地図は、1900年に入って、16世紀の大宇宙家イニャツィオ・ダンティ Ignazio Dantiの地図を下書きにして描かれたらしい。
ラティウムとサビーナ(ラティオ南部)、ローマ市
7.ソビェスキの間 Sala Sobieski

長い地図のギャラリーを通リ抜けて出会ったのがソビェスキの間だ。壁には、ポーランド王ポーランド王ヤン3世ソビェスキをヤン・マテイコが描いた大きな絵が掛かっていたが、この部屋の名前の由来でもある
ポーランド王ヤン3世ソヴェス ヤン・マテイコキ 
【余談】ポーランド王ヤン3世ソヴェスキは、1683年にウィーンでトルコ軍を破ったことで知られているらしい。ヤン・マテイコ(1838-1893年)は、ポーランドの著名な画家である。以前、ポーランドを旅行した折に、この画家の作品を見たことがある。




2017年9月17日日曜日

独仏伊一人旅(44) 6月4日(土)午後 バチカン美術館(5)燭台のギャラリー

5.燭台のギャラリーGalleria del Candelabri

2階に上がり最初に入った燭台のギャラリーでは、壁、天井、床などが美術作品で覆われていた。

天井画3点
天井画1
天井画2
天井画3
床の装飾
床の装飾
彫像 ディアナ(アルテミス)

ローマ東郊のハドリヤヌス帝の別荘から発見されたという女神の彫像である。彫刻家の手で修復のうえ、1781年に美術館に売られた。ローマ神話ではディアナ、ギリシャ神話ではアルテミスというそうだ。見れば見るほど奇妙な姿をしている。
ディアナ(アルテミス)
【余談】説明文によれば、“Lady of the Animals"として崇拝され、胸に重なるものはbreasts(おっぱい)、一説にはbulls' testics(雄牛の金玉)とも解釈されているらしい。紀元前4世紀の後半に造られた彫像から、ローマで多くの複製が作られたということだ。

2017年9月11日月曜日

独仏伊一人旅(43) 6月4日(土)昼 バチカン美術館(4)キアラモンティ美術館、ブラッチョ・ヌオーヴォ

4.Galleria Chiaramontiキアラモンティ美術館からBruccio Nuovoブラッチョ・ヌオーヴォ

ピーニャの中庭の面した東側の建物で、内部は非常に長い通廊になっていた。その両側に数多くの彫刻が展示されていた。

Stutue of a Woman ある婦人の像
Stutue of a Woman 
Colossal Head of Athena アテナ・プロマコスの巨大な頭 前5世紀

ペイディアス(古代ギリシャの彫刻家)の初期の代表作といわれるアテナ・プロマコスの像の古代ローマ時代(紀元117‐138年)の複製とか。アテナ・プロマコスは、古代ギリシャ時代の守護女神。
Colossal Head of Athena 大理石
Statue of Goddess Breastfeeding a Baby 授乳する女神像
授乳する女神像
ヘラクレスと幼いテレポス

ヘレニズム末期(紀元前1世紀末か?)の彫刻のトラヤヌス帝(在位98‐117年)時代の複製という。
ヘラクレスと幼いテレポス
ガニュメデスと鷲 Statue of Ganymede with Eagle

紀元2世紀半ばの古代ギリシャ(紀元前4世紀から3世紀まで)の彫刻の複製という。ガニュメデスはゼウスに浚われ、オリンポスに連れた来られて神々に杯を捧げ持つ者とされることになったという。
ガニュメデスと鷲
次に2階へ上がり、燭台のギャラリーGalleria dei Candelabriからシスティーナ礼拝堂Chapella Sistinaにつながる長い通廊を進んだ。
つぎに、れていた。