2017年7月9日日曜日

独仏伊一人旅(37) 6月3日(金)パリからローマへ、テルミニ駅に着く

5時半に起床。荷物を片付け移動の準備をして、7時半すぎにホテルをチェックアウトした。
ホテル・エタジニ・オペラ
メトロ・オペラ駅でドゴール空港までのチケット(10€)を購入して、7号線に乗った。東駅で5号線に乗り換え北駅に着いた。RERのB3ラインのホームは、通勤時間帯のため勤め人でいっぱいだった。大きなスーツケースを持つ人はほとんどいなかった。あとから乗ろうとする人に押されるようにして、列車に乗り込んだ(8時15分ごろ)。

途中でシートが空き座ることができたが、外を眺める余裕はなかった。乗っていた列車は途中駅でB5ラインと分岐し、30分ほどで空港に着いた(8時45分ごろ)。駅は空港と直結していた。予約したエアフランス機(AF1504)の出発ターミナルをしっかり記憶していなかったため、まごついたが、チケット控えでターミナル2を確かめ、その方向へ向かった。安全及び出国チェックは何ら問題なく通過し待合室に着いたが、出発時間の10時20分まで、サンドイッチを食べたりしながら待った。

離陸して30分余りが過ぎたころ、窓の外の雲の切れ目から雪を頂いた山頂が見えた。アルプスかと思ったが、乗務員に聞くことができず、自分なりに納得した。
アルプス越え?
【余談】地図で見ると、パリとローマを結ぶ航空機は、西部アルプス(スイスとフランスの国境地帯)の上空を飛行すると見られるので、間違っていないと思ったが、どうであろうか?

12時15分、ほぼ予定通りにローマ・フィウミチーノ空港Aeroporto di Fiumicinoに着いて最初にしたことは、携帯電話のSIMカードの購入・設定だった。ボーダフォンのショップで、手真似と筆談で何とか用が足りた(30€)。ついで、カフェ・ショップAutogrillで、コーヒーとサンドイッチを買い、店の前のテーブルに座って食べた。
食べ終わり、レオナルド・エクスプレス(空港~テルミ二駅の鉄道、ノンストップ)の空港駅へ歩き改札口に至った。
管制塔 イタリア風?
 そこで、チケット(14€)を購入し改札口を通って電車に乗ろうとしたところで、スーツケースをカフェ・ショップに置き忘れてきたことに気づいた。どこだったか記憶が確かではなかったが、警備員や案内係の声をかけたりしてようやくその店にたどり着いたところで、なんと置いたままの状態で見つけることができた。
フィウミチーノ空港駅改札口 イタリア風?
こんな改札口は見たことがなかったが、チケットをかざすとバーコードが読み取られ扉が両側に開いた。
忘れ物をしたため、予定より1時間遅れたが、3時に空港駅を発車し、3時半テルミ二駅24番ホームに着いた。
テルミニ駅構内23,24番ホーム
駅を出てカヴール通りを歩くと、1つ目の通りの角にマッシモ・ダゼリオホテルがあった。チェックインをした後、部屋に入り、荷物を解いてから、夕方まで一休みした。

2017年7月5日水曜日

独仏伊一人旅(36) 6月2日(木)午後 ノルマンディ上陸地を訪ねる(4) ジュノビーチ

ツアーで最後に訪ねたのは、ジュノービーチセンターといわれるカナダ軍を記念した博物館であった。Courseulles-sur-merクルスール=シュル=メールというところにあった。どんよりとした曇り空は変わらず、時刻は4時半を回っていた(オマハビーチからの距離は40㎞らしい)。

ジュノービーチ上陸作戦は、カナダ第3歩兵師団(戦力15000人)が担ったことから、カナダ国旗が翻っていた。手前は、独軍のごく軍の砲台跡で、右手前方に博物館が見えた。
砲台跡とジュノビーチセンター
この砲台には、地中に降りる階段があった。中に入ってみると、壁には弾痕が見られた。激しい戦闘が想像された。(死亡340人、負傷574人)。
博物館前には、いろいろな兵器が展示されていた。復元されたものや戦利品を修復したもののようだった。
カナダ軍の機関砲
滞在時間が短く印象に残るものは少なかったが、博物館の入り口わきの兵士の名前を刻んだプレートの碑には胸を突かれた。
戦没者の記名碑
【余談】Beny-sur-Merにあるカナダ軍墓地には、2000人を越える男たちが埋葬されているそうだ。

1時間足らずの短い見学を終わり、バスに乗り帰途に就いた。途中、サービスエリアのようなところに駐車し、休憩した。僕はトイレで用を済ませた後、コーヒーを飲んだ。
A13号沿いのサービスエリアのスーパー
ほぼ予定通りにツアー会社の営業所に帰着した。ホテルへ戻る途中の道で見かけたうなぎ屋(東京でもよく知られた店)に入り、酒とうな重を注文した。酒の酔いも程よく、うなぎも残さず食べた(49€、6205円だった)。 
何の地下道?
ホテルに戻り、シャワーを浴びてから、荷物を片付けた。明日は、イタリアへ移動する予定だった。体調は余りよくなかったが、風邪薬を飲んで休んだ。

【余談】ノルマンディ上陸地(フランス、コタンタン半島、ノルマンディ海岸)を訪ねるツアーに参加したが、5つの上陸地(ユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、スォード、いずれも作戦上のコードネームだった)のうち2か所の一端と上陸後の激しい戦闘があったカーンの博物館を見学したにとどまり、残念ながら全体像を掴むことは甚だ困難であることが分かった。
ネプチューン作戦(上陸からパリ解放までをオーバーロード作戦)と呼ばれる作戦の研究が始まったのは1943年1月、同年11月28日テヘラン会議において米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリンが討議して決定したという。
上陸した連合軍がパリを開放したのは8月25日、第2戦線(西部戦線)を構築することができ、独軍はソ連軍の東部戦線との2正面作戦を展開せざるを得なくなった。独軍が降伏したのは、翌1945年5月8日で(西部戦線降伏の日は5月4日)、上陸の日から11か月余の間、激戦が続いたことになる。
なお、これまでの記述は、現地で入手したパンフレット、小冊子(ガイドブック)、地図のほか、ウィキペディアの記事を参考にした。

2017年6月26日月曜日

独仏伊一人旅(35) 6月2日(木)午後 ノルマンディ上陸地を訪ねる(3) 記念碑と墓地

バスが着いたのは、オマハ海岸の中央に位置するサンローラン郡の海岸で、D-Day Memorialという米軍第一歩兵師団の記念碑とD-Day60年を記念して創作された彫刻Les Bravesを見学した。

オマハ海岸の上陸部隊の主力は第1歩兵師団と第29歩兵師団であった。この記念碑には、1st Infantry Divisionと刻まれていた。
米第一歩兵師団の記念碑
砂浜の彫刻Les Bravesは、Anilore Banon(1957-)の作品で、2004年、D-Day60周年を迎えるに当たりフランス政府から制作を委託された。この作品は、希望の翼、ライズ・オブ・フリーダム、仲間の翼という3つの要素から構成されているという。
Les Braves Anilore Banon 2004
次いで、Normandy American Cemetry and Memorialに至った。
この上陸作戦では、強襲上陸作戦を実行したアメリカ軍の方が、強靭な防御陣地を築いていたドイツ軍より損害が多かったようだ。墓石数9387、内十字架数9238、ダビテの星数147で、これらの墓石は、東西方向の中央通路の両側に5区画筒合計10区画に配されているという(パンフレットによる)。
記念碑から見た墓地 反射プールの先に墓地が広がっていた。
この記念碑には、女性像"The Spirit of American Youth Rising From the Waves"のほか、つぎのような戦闘図が描かれていた。上方向(南)がフランス西部地帯で、下方向(北)がイギリス海峡である。ドイツ軍は■で示されいた。
上陸前と上陸後の展開
記念碑から右手(北方向)に海岸に至る歩道が作られていて、展望デッキから上陸地を見渡すことができたが、バスに乗る時刻のため僕は見に行かなかった。
オマハ海岸展望台に至る道
バスに戻り、Juno Beachの墓地カナダ軍の記念施設に移動した。

2017年6月4日日曜日

独仏伊一人旅(34) 6月2日(木)午後 ノルマンディ上陸地を訪ねる(2) オマハ海岸、オック岬

バスは田園地帯を走り続けること1時間半あまりでオマハ海岸に着いた。駐車場からガイドの後をツアー一行についていったが、写真を撮ったりしている間に遅れてしまい一人で歩くことになった。
周辺の案内図
オック岬に向かって歩いていくと、様々な要塞跡が保存されていた。これには、誇大なカエルが連想された。

要塞跡
さらに進むと要塞跡の屋根に設置された展望台があった。上って東方向を見ると、生い茂った草に砲弾跡のクレーターが覆われていた。
砲弾跡のクレーター
西方向も同じ景色が見られるなど、この辺り一帯が上陸地として原状を保存されていることが見て取れた。
砲弾跡のクレーター
岬の先端に残された要塞跡、左手にカメの口のように見える隙間は、内部から海上を監視するためのものである。銃眼でもあったかもしれない。この上に米軍の記念碑が建てられていた。

要塞跡の上に建てられた記念碑の足元で、一人の男性がうずくまるような姿勢で何かの取り組んでいた。
米軍の記念碑
その人は、記念碑の碑文に墨を塗っていたのだ。
碑文に墨を塗る人
要塞の内部に米軍兵士の銘板が取り付けられていた。おそらく戦没した兵士であろう。
要塞内の兵士の銘板
【余談】ノルマンディ上陸作戦(正式名「ネプチューン作戦」、パリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」と呼ばれるらしい)は、1944年6月6日に始まり7月中旬まで続いた。
連合軍の戦力は12か国軍の156000人(7月下旬には1332000人に達する)、戦果として連合軍のヨーロッパ上陸、西部戦線の構築、パリの開放が挙げられているが、損害は戦死・戦傷が120000人だそうだ。他方、独軍の戦力は380000人、戦死・戦傷113000人という。一昨年、ゲティスバーグの古戦場跡とは異なる様相であった。

指定された2時過ぎに駐車場に戻り、バスで次の上陸地へ向かった。

2017年5月26日金曜日

独仏伊一人旅(33) 6月2日(木)午前 ノルマンディ上陸地を訪ねる(1) カーン・メモリアル

1944年6月6日(D.Dayと言われる)、連合軍がドイツ占領下のノルマンディ上陸作戦Invasion of Normandy(正式にはネプチューン作戦Operation Neptune)を敢行した。
その日から72年経った6月2日、この地を巡る「連合軍上陸海岸とノルマンディ平和博物館日帰りツアー」に参加するため、6時に起床、指示された集合場所へ歩いて行った。7時過ぎ、大型バスは出発した。ガイドが話す言葉は英語、説明資料はなかったため、現地についてから入手したガイドブックや地図を見ながら、見学した。

10時すぎ、最初に着いたのは、カーン平和博物館Memorial de Caenだった。
記念館の展示は、1918年から1970年まで、対独戦争を中心に、大量殺戮や大戦後の東西対立、大衆消費社会の様相など多岐に渡っていた。これらを12時半過ぎまで、昼食をはさんで見学した。
カーン平和博物館
巨大なモニュメント
上陸地の情景 アメリカ軍の上陸地
米軍上陸地Omaha 6:30、Utah 6:30
上陸地の情景 イギリス軍とカナダ軍の上陸地
英軍条上陸地Sword 7:30 加軍上陸地Juno 8:00 
軍装や兵器等





日本兵に関する展示があった。Genocides et violences de masse集団虐殺とマス暴力をテーマとするコーナーでのことだ。出征兵士の武運長久を祈る寄せ書きと幟である。このほか、軍刀や虐殺の現場を撮ったと思われる写真が展示されていた。

再び、ツアーバスに乗って、いよいよアメリカ軍の上陸地Omaha Beachへ向かった。

2017年5月14日日曜日

独仏伊一人旅(32) 6月1日(水)夜 オペラ・ガル二エ King Lear

パリへ戻る列車に乗ったところ満員でしばらく立っていたが、席が空いたので座った途端に眠ってしまった。途中乗り換えるInvalides駅を通り過ぎ、結局、パリ市の南西部を一周してヴェルサイユChantiers駅に戻ってきた。次の列車までの待ち時間を合わせると1時間半以上を無駄にしてしまった。
Versailles Chantiers駅
メトロ・オペラ駅に着いたのは8時前、一旦ホテルに戻り着替えてからオペラ・ガル二エに向かった。お客の姿はなく、すでに入場済だった。案内の男に導かれて4階に上り、席についた。

上演されていたのは「リア王King Lear」。このタイトルに興味を引かれてチケットを入手した。シェークスピアの良く知られたこの悲劇は、1605年下半期から1606年の間にドラマとして初演されたというが、オペラとして作曲されたのは、1978年、アリベルト・ライマンによってで、非常に新しいことが分かった。従って、古典風ではなく、現代風に作られていた。

ドイツ語の上演であったためか、舞台上部にフランス語と英語の字幕が映されていた。恥ずかしいことながら、ストーリーがどのように進んでいるか、いま何の歌が歌われ、演じられているのかさっぱりわからないまま、激しい言葉と演技の展開、オーケストラの演奏に目と耳が引き付けられた。

場内風景
幕間の場内(1)
幕間の風景(2)
天井画「夢の花束」は、1964年、シャガールは時の文化大臣アンドレ・マルローの依頼を受けて製作したもので、オペラ座が完成してから89年後のことだという。絵が5つの色(赤、白、緑、青、黄)に分けられ、14人の音楽家とオペラ・バレー作品、パリの風景が描かれ、さらに、中央内側の小さい円のなかにも4人の作曲家とその作品が描かれているそうだ。
天井画「夢の花束」シャガール 1964年
主演した男性歌手は、レイア王がバリトンのほか、バリトンバス、テノール、カウンタテノール、女性歌手は3人ともソプラノで、11人の衣装をみればわかるように、全く現代風オペラであった。リア王に扮したバリトンは、ボー・スコバスBo Skovhus(54歳)、デンマーク人だそうだ。

外へ出ると、雨が降っていた。遅い夕食をパリ初日に入ったレストランで食べてから、ホテルに戻った。今夜は、ヴェルサイユ宮殿と庭園での歩き疲れで、早く眠れそうだ。明日は、パリ最後の日、ノルマンディ上陸海岸を訪ねる予定、天気の回復を祈った。

2017年5月8日月曜日

独仏伊一人旅(31) 6月1日(水)ヴェルサイユ宮殿(6)マリーアントワネットの村里

小トリアノンの入場チケットを購入したものの、滞在できる時間から内部の観覧はせず、「王妃の村里」へ向かった。
「王妃の村里」から見た小トリアノン 1763-68年
【余談】この宮殿は、「王の寵姫ではなくなった後も友人であり続けたポンパドール侯爵夫人が、《王の退屈しのぎ》のために率先して計画し」、1763年から1768年にかけて建設されたが、完成時には夫人は亡くなっていたそうだ。
1774年、ルイ16世は、妻のマリーアントワネットにトリアノンの領地を与え、宮廷から離れた生活を送れるようにしたという。

愛の殿堂
1778年、ㇼシャール・ミックによって建てられた「愛の殿堂」は、小トリアノンの寝室から眺められるすべて大理石の建物で、中心に「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」像が置かれていた。
愛の殿堂 Le Temple de l'Amour 
【余談1】中央の彫刻「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」をめぐる話。この彫刻は、ルイ・フィリップ・ムーシーという彫刻家が作ったけれども、エドム・ブーシャルドンという別の彫刻家が作った同名の傑作(のコピーだそうで、その原型は、ルーブル美術館にあるという。二人はともにフランス彫刻界で認められた人だ。
どうしてこういうことになったのか、その理由は原型のキューピッドの姿に問題があって、ポンパドール侯爵夫人は賞賛したけれども、1750年宮殿に置かれたときは反対の声が強かったというのだ。
【余談2】愛の殿堂をめぐる悲恋のエピソード。マリーアントワネットは、ここで、スウェーデン貴族フェルセン伯爵(1755.9.4-1810.6.20)と逢瀬の時を持ったという。よく知られた「ベルサイユのばら」のモデルである。

目指した王妃の家は、改修工事中で、家全体が仮設足場で囲まれていたため、展示のパネルで全体像を掴むほかなかった。
足場に囲われた王妃の家
王妃の家はこじんまりとしたつくりであることがわかる。
王妃の家(パネル)
王妃の村里には、王妃の家のほか、農家が数軒保存されていた。1783-1784年に建てられ、農夫が住まわせられ、農場で耕作をしていた。大きな建物から小さな建物、崩壊した跡地、ブドウ畑、アヒルやハトを飼育している建物など、ベルサイユ庭園とは全く異なった風景が見られた。ノルマンジーの農村を再現したのだそうだ。








池の畔に「マールボロの塔」と名付けられた見晴らし塔があった。あるブログによれば、「当時のフランスの農民の間で、流行っていた有名な歌の中でイギリスの将軍、初代マールボロ侯爵ジョン・チャーチルから来ている」という。あのチャーチル首相の先祖である。
マールボロの塔
村里を出て、小トリアノン前から遊覧用ミニトレインに乗ってベルサイユ宮殿へ戻り、そして、駅へ向かった。