2019年2月25日月曜日

中国一人旅その1(24) 6月11日(日)午前 人民大会堂(2)

大会議場から出て、会場のロビーを一周した。
大会議場からの出口
2階ロビーのベンチで寛ぐ人たちに緊張感は全くなし。
階上のロビーで寛ぐ人々
1階ロビーの風景、右手に入口、左手奥に売店があった。記念にノートを買おうとしたら、クレジットカードが使えず、財布はバッグに入れて預けていたため、買うのを諦めた。
天井のシャンデリア
2階ロビいうーの中ほどに展示されていた「万宝山」と呼ばれる、天然の辰砂や白雲石、水晶、方解石の塊だそうで、1960年代に貴州省の鉱工1万人余りが寄贈したという。
階上ロビーに据えられた「万宝山」
上海庁 正面奥の壁に掲げられた絵は、よく知られている黄浦江越しに広がる浦東の風景だった。
「上海庁」
廣東庁
「廣東庁」
北京庁 つい最近サウジアラビアのムハンマド皇太子と習主席が会談しているところがテレビのニュース番組で放映されていた。背景の絵は故宮を描いたもので、この絵で気づいた。
北京庁
大宴会場 北側の宴会場棟にあり、広さは約7千㎡ということだ。
大宴会場の演壇
天井の格子にも照明器具が絵を描くように取り付けられていた。
天井のシャンデリア
階段
階段
台湾庁 扉が閉じられていて、中の様子をうかがうことができなかったが、台湾が中国の一部(領有権を持つ)、台湾省であるということを示しているのだろう。
台湾庁
次回は、会議室や廊下に飾られた壁画や衝立、床の絨毯、天井のシャンデリアのいくつかを紹介する。

2019年2月15日金曜日

中国一人旅その1(23) 6月11日(日)午前 人民大会堂(1)

細い通路を通り向けると、目の前に大会堂のファサードが目に飛び込んできた。

大会堂は、建国10周年を記念して1958年から1959年(毛沢東66歳)にかけて10か月で建設された。北(宴会場)、中央、南(全人代常務委員会事務所)の3つの建物から構成され、床面積は17万㎡以上、33の会議室、300の部屋があるという。中央を万人大会堂(周恩来が命名)と言い、大会議室のほか、代表庁という各省や直轄市、自治区などの控室がある。
正面外観
案内表示
館内案内
代表庁の一つ、湖南庁を見学した。1階ということで、玄関ホールからやや下がったところにあった。
代表庁「湖南庁」
湖南庁の内部
湖南庁の内部
赤い絨毯が敷かれた階段
1階から2階へ上る階段
代表庁の一つ、遼寧省を見学した。
「遼寧庁」
遼寧庁の内部 正面の衝立に、瀋陽故宮の大政殿が描かれていた。
遼寧庁の内部
大会議場
大会議室演壇 (2階席から) 
大会議場の天井はLED照明か、竜が渦巻いているように見えた。座席数は、1階席から3階席までで10000席という。「万人大会堂」という所以か。
大会議室天井
出口EXIT
「出口」
[続く]

2019年2月9日土曜日

中国一人旅その1(22) 6月11日(日) 午前、前門から人民大会堂へ

北京三日目朝8:30、ホテルを出て、地下鉄宣武門駅へ向かった。地下鉄には乗らず、バスに乗った。2階建てでその最前列に座り、目の前の風景を夢中に見ているうちに前門が近づいてきた。
正陽門(通称前門)
前門というのは通称で、正式名称は正陽門というそうだ。南北に2つ、南側は箭楼、北側が正陽門である。もともと一つの城門だったが、現在は周辺の再開発により二つの門が残った。箭楼は名の通り武器弾薬庫であった。その南側は前門大街で、北京の下町ともいうらしい。窓のように見える厳めしい感じがするところは、矢や鉄砲を打つ銃座のように見えた。

この辺り一帯はもと北京城で、故宮を擁する内城とその南側に外城があったそうだ。正陽門は内外を結ぶ要衝だった。ちなみに、地下鉄2号線は内城の城門と城壁に沿って建設されている。
正陽門(箭楼)の南側
箭楼が外城から押し寄せる敵をせん滅し、内城を防衛する使命を持っていることがわかった。
迂回するように東側から北へまわると上る階段が見え、通路の先には前門大街の街路樹が見えた。
正陽門(箭楼)の北側
振り向くと、正陽門の南側、箭楼とは対照的で優雅な城門であった。通路を通して毛主席記念堂の玄関(実は出口)が見えた。
正陽門の南側
左 正陽門(箭楼) 右 正陽門
正陽門を、箭楼と同じように東側から周り、毛主席記念堂の前をとおり、人民大会堂へ向かった。
毛主席記念度堂(廟)
記念堂前の左右に二つの彫像が据えられていた。東側は軍人で、武器を構え勇ましい姿である。
東側の彫像 軍人
西側は、農民や学生、学者や労働者か、先頭の若い男は大部な書物を左手に掲げ、若い女はたわわに実った稲穂の束を両手で掲げていた。東西とともに、高く掲げられた、風にはためく旗には、毛主席の横顔が浮彫されていた。
西側の彫像 農民、知識人
人民大会堂へ入る入り口は敷地の東南の角にあり、すでに2,30人がたむろしていた。8時45分、入場が始まった。

2019年1月31日木曜日

中国一人旅その1(21) 6月10日(土)夕刻 建国門から王府井まで歩く

建国門駅で下り、地上に出て、ホテルニューオオタニ長富宮飯店に向かった。道を間違えたかなと思いながら、何とかホテルに着き、受付で、京劇を公演している梨園劇場の入場券を購入したいと告げると、梨園劇場はこのホテルとは別の前門建国飯店にあるとのことで、明日11日(日)の公演を予約した。

長富宮飯店を出たところ、外はまだ明るいので王府井まで歩くことにした。天安門前に至る大通り、ここら辺は建国門内大街と言うようだが、建国門北大街と交差する建国門橋で北側を見ると、乗用車やバスが猛スピードで通過していた。
建国門橋
進むと、ビルの入り口の「中国社会科学院」という表示板が目に入った。ここは、中国国務院直属の組織で、中国政府のシンクタン(イデオローグ?)といわれ、1977年5月、中国科学院の哲学社会科学学部をもとに新設されたという。
中国社会科学院
大通りの南側にちょっと風変わりなビルがあった。中国海関総署のビルだった。この役所は国務院に属し、物品の輸出入の管理及び関税事務を所管するというから、目下の関税問題の司令塔を努めているのだろうか?
中国海関総署
続いて、右手(北側)に「長安大戯院」の看板が見えた。建物の前には、京劇俳優の面に描かれた隈取りを象ったものが据えられていた。入口に向かう人の姿が見られ、アッと思った。先ほど、京劇のチケットを買って来たばかりだったことや出発前に調べた時はこの劇場の京劇の公演予定が見つからなかったからだ。
長安大戯院
ようやく王府井に着いた。10数年前に一度着たことがあり、その折の記憶を頼りに、お茶の店を探した。店の構えは少々小さくなったように見えたが、同じ店名の扁額を見つけた。その店で、鉄観音茶とプーアル(普洱)茶を買った。
王府井入り口
いささか歩き疲れたので、地下鉄に乗り、2駅目の西単駅で下り、ホテルに戻った。夕食は、近くの食堂で食べたが、この店は結構賑わっていて騒々しいくらいだった。
明日は、午前は人民大会堂から国家博物館へ、午後はもう一度天壇へ、夜は京劇を見る予定だ。



2019年1月21日月曜日

中国一人旅その1(20) 6月10日(土)夕刻 天壇公園と壇廟建物群

ホテルに戻り一休みしてから天壇へ見学に行くつもりだった。ところが目が覚めたのは4時が近かった。急いで宣武門駅のバス停に向かった。天壇公園の西門を通るバスを探して乗ったところ結構時間がかかり、着いたのは5時を回っていた。見どころが見られない公園のみの入場料15元(高齢者優待なし)を支払い、西門から入った。
西門(天壇公園の入り口)
導遊図(案内図)の左側に中文と英(米)文、右側は上から日本語、韓国語、ロシア語で、天壇の由来、建物、樹木、石などの見どころが簡単に説明されていた。
案内図
【余談】天壇は明・清の皇帝が天を祀り豊穣を祈った祭祀のための壇廟建築群である。明の永楽18年(1420年)に建築が始まった。現存の建物の大部分は清代の建築物だが、配置は明の嘉靖帝時代のままという。面積は273万㎡(東京ドーム58個に相当)。
西天門
【余談】天門は、東西南北に4つある。南北の天門は、広い通路が走り、その上に、南から北へ、円丘、皇窮宇、成貞門、祈年殿が建てられている。途中、東西の通路と交差するところが丹陛橋である。

西天門を通リ抜けると、右手(南方向)に建物が見えたので、そちらへ向かった。
東西の天門を貫く通路
堀があり、それに沿って進むと、斎宮の正面入り口に至った。
斎宮前の空堀(水)北側
斎宮の入り口に近づくため、堀に架かる橋を渡らなければならないが、すでに閉門されていたので、樹々が茂る中を進んだ。
斎宮の正面入り口(東向き)
三座門を通リ抜けさらに進み、九龍柏の方へ左(東方向)へ曲がり歩いた。
三座門
人の声が騒がしく聞こえてきたところで、この木に出会った。樹齢500年を越すという。木肌に九匹の龍が絡みついているように見えることからで、この名が付けられたそうだ。
九龍柏
天壇の壇廟建築物群のうち、南北軸に建てられた建築物2棟の一つが皇窮宇である。その周りの塀が回音壁と呼ばれている。この南側に円丘壇があるが、そこは見ないで、その北門、成貞門(皇窮宇を取り囲む4つの門の一つ)を通り抜け北へ向かった。
皇窮宇(中央)と回音壁(周囲の壁)
通路は結構長く、祈念殿にたどり着いたものの、中へは入れず、花甲門をくぐり、回り道をして、丹陛橋の下を通り抜け、七星石が置かれたところに来た。
祈年殿 中央は、漢白玉
祈年殿入り口
花甲門
七星石は、明の嘉靖帝(第12代、在位1521-1567年)の時代に、天壇の東南に置かれたという。実際の石は8個で、それは清の乾隆帝の世に、清の満族が中華の一員であることを証するために新たに置かれた。
七星石
この後、長廊(72軒廊とも)を渡り、東門を出た。地下鉄に乗り、東単経由で建国門駅に向かった。




2018年12月22日土曜日

中国一人旅その1(19) 6月10日(土)午前 宛平城から中国人民抗日戦争記念館へ

盧溝橋を後に、宛平城へ向かった。威厳門(もと永昌門)を通り抜け進んだ。
城壁に取り付けられた案内版には「華北地域で完璧に保存された唯一の両門衛城です。明明王朝は国都を守り、李自成の進撃を防ぐため、宦官武俊に命令を下し、紀元1638年から1640年に掛けて、この城を築き、拱極城と名付きました。1928年12月、宛平城役所は城内に移ってから、宛平城と称しました。城には両門があり、東は順治門、西は永昌門(清代から威厳門と改称)、長さは640m、幅は320m、敷地面積は約20ヘクタールあります。」と記されていた。城壁には盧溝橋事件の時の日本軍による弾痕が残っているそうだ。
宛平城威厳門(清代以前は永昌門)
威厳門を通り抜け東へ進むと、中国人民抗日戦争記念館の前に至った。中へ入ると、児童や生徒と思われる子どもが親に連れられて見学に来ていた。中国史、特に柳条湖事件以来の歴史を学ぶ教育施設の役割を持っているのだろう。別館で台湾における抗日の戦いを展示していたが、台湾からの見学者を意識してのことかと思われた。
記念館入口
記念館の平面図(左:本館。右:別館)
入口ホールで迎えてくれたのは、抗日戦争の英雄像であった。武器を携える兵士を中心に様々の人民の群像が前方を凝視していた。
抗日戦争の英雄像
永定河の流れ

まず次の宛平城とその周辺の航空写真(撮影時期は記されていなかったと思う)に見える永定河の流れが現在と異なることだ。橋を渡りながら、永定河は流れているように見えず、どこかに堰があって止まっているように思われた。
次に、中央に見える盧溝橋と左(北)側の鉄道橋はいずれも永定河の中州を横切っていた。現在の地図には中州はない。現地で橋を西へ渡ったが、その先にさらに橋があるようには見えなかった。
中央:宛平城 手前:永定河
戦闘場面のジオラマ

両軍の戦闘はどのように起こり展開したか、ジオラマはある時点の情景を描いたものに違いなく、興味深く見た。鉄道線路を挟んでの白兵戦で、日本軍が中国軍の攻撃に対し防戦しているように見える。武器は両軍とも銃剣であるが、抜刀した刀が異なっている。
左(東)がわ:宛平城 中央:日本軍と中国軍との戦闘 右(西)側 盧溝橋
1937.7.7記念地の銘板

銘板が設置されたところが、記念地とされていた。盧溝橋事件が発端となって全面戦争に拡大し、1945年8月、日本のポツダム宣言受諾=無条件降伏まで続いた。この戦争を8年戦争と言っているが、1932年6月の柳条湖事件を起点とみると14年戦争とも言える。

昼過ぎ記念館を出て、中華料理店を探しながら歩いていると、「鄔智雅娜 素食茶餐庁」と記した看板の店の前に「素食28元」と手書きの立て看板に引かれて中へ入った。
素食料理店
【余談】「鄔智雅娜」 第1字「鄔」はウ、小さなとりで。第2字「智」はチ、賢い。「智」。第3字「雅」はガ、みやび。第4字「娜」ナ、日本では、例えば「婀娜っぽい」という風に。意味ありげな、味な4文字。

28元の素食、肉を使わず、野菜が中心という。2回ほどお代わりをしたら満腹になった。厨房が見え、5,6人が忙しそうに働いていた。
素食
 順治門を出て、南へバス停に向かった。
東の順治門
地下鉄9号線七里庄駅を通るバスに乗ることができたが、降りる所を間違えたため次のバスを待つ時間が余計にかかった。何とか七里庄駅にたどりつき、地下鉄9号線に乗った。