2014年10月11日土曜日

2014アメリカ一人旅 【ワシントン第2日 5/5】 航空宇宙博物館 ライト兄弟、月面車、零式艦上戦闘機

 アメリカン・インディアン博物館の屋外展示を見ながら、西隣の航空宇宙博物館に向かった。モール側の入り口から入り、上を見上げると様々な飛行機が吊り下げられていて、興味が掻き立てられた。Welcome Centerで館内案内図を入手した。

 1階と2階に各16の展示室があるが、思いつくままに、ライト兄弟(209室)、アポロ(210室)、第2次大戦(205室)を見ることにして、エスカレーターで2階に上った。

1903フライヤー
209室には、ライト兄弟に関連する様々なものが展示されていた。そのなかの主役は1903フライヤーと呼ばれる「最初の動力付きで、パイロットが搭乗して継続的に飛行し、機体を操縦することに成功した、空気より重い空飛ぶ機械」である。

【余談】 この飛行機は弟のオーヴィルが操縦かんを握っていたそうだ。一体どちらを向いて飛んだのだろうかと考えたが、操縦桿を握る人物の姿勢から判断できた。2本のプロペラは、1台のエンジンの駆動をチェーンで伝え回転させたという。
 
 地面に敷いたレールを滑走路にして4回の飛行が試みられたと記録されている。回を追うごとに、飛行距離が伸びていることがわかる(ウィキペディアによる)。


 1回目: 12秒、120ft(約36.5m
 2回目: 12秒、175ft(約53.3m)
 3回目: 15秒、200ft(約60.9m)
 4回目: 59秒、852ft(約259.6m)

 数多くの展示物のなかで面白いなと思ったのは、兄のウィルバーのものと思われる高校生時代の年間成績表である。年間平均点は90点を超えていた。優秀だったようだ。兄弟は印刷屋を営んでいたことがあるほか、自転車を製造・販売するWright Cycle Co.を経営していた。自転車店は、順調に成長し、飛行機の開発に要する資金を確保できたと見られている。その自転車"Van Cleve"が展示されていた。

アポロ計画 月面車
次の201室は、"Apollo to the Moon"をテーマとし、宇宙衛星の開発の歴史を展示していた。米ソの宇宙開発競争は、ソ連が先行し、それをアメリカが追う形でし烈な競争が展開されたが、アメリカは、初めて月へ人を送り込むことに成功して威信を取り戻した。

 アメリカの宇宙開発は、国の威信を賭けていた。ケネディ大統領は、1961年5月上下院合同議会で演説を行い、60年代に人を月へ着陸させ、安全に地球へ帰還させると表明した。

 アポロ計画(1961年~72年)のもとで強力に推進された。JFK大統領は、1961年議会で演説を行い、アームストロングとオルドリンが搭乗したアポロ11号が、1969年7月20日、世界で初めて月面に着陸した。
 さらに、アポロ15号(1971.7.26‐8.7、スコット船長)、16号(1972.4.16-4.27、ヤング船長)、17号(1972.12.7-12.19、サーナン船長)は、月面車Lunar Roving Vehicleを送り込み、着陸地点の周辺を探査した。これらの月面車は、月に廃棄物として残されているらしい。

三菱A6M5Zero 
3番目に入った展示室は、205室"World War Ⅱ Aviation"である。第2次世界大戦中に空中戦で名を馳せた日本、イギリス、アメリカ、イタリア、ドイツの戦闘機が展示されていた。

 日本の戦闘機は、ゼロ戦の名で知られた"三菱A6M5Zero"、いわゆる零式艦上戦闘機で、天井から吊り下げられていて、階段を上ると間近に見ることができた。

【余談】 205室の一角に、戦闘場面や終戦時の新聞記事などを展示するコーナーがあり、レイテ湾を巡るアメリカ海空軍の戦力の前に日本海軍の無残な敗北を示す戦闘図を見つけた。それを見ながら、大岡昇平作「レイテ戦記」を思い起こし、複雑な感慨を覚えた。

 閉館時間が迫り、1階のWelcome Centerに戻ったところ、職員はおらず警備員がいるだけだった。そこで、"Enola Gay"はどこかと聞いたが、なかなか通じなかった。何人かの警備員同士でやり取りしていたが、わかったことは「別館」※にあるということだった。あきらめて、ホテルに戻ることにした。 ※「別館」はダレス空港の近くにあり、空港からシャトルバスが出ているそうだ。

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