2016年12月26日月曜日

独仏伊一人旅(21) 5月31日(火) オルセー美術館 絵画1


見学案内によると、絵画とグラフィックアートは、1848年から1914年に至る5000点を越えるという。館内案内図と見学案内を参照しながら、鑑賞した絵画を振り返ってみることにしたい。

絵画は、「古典主義と伝統的形式主義」から始まり「象徴主義と表現主義」まで14に分類されている。

1.古典主義と伝統的形式主義

ウィリアム・ブーグロー(1825-1905)が25歳の時の作品。「ダンテから着想した」という。狂気のなせる姿にしても、恐ろしい状況だ。
説明を地獄のダンテとウェリギリウス ウィリアム・ブーグロー 1850年
トマ・クチュール(1815-1879)の作品は、「1847年のサロンで大成功を収め、ちょっとした騒ぎになった。」、「国家は作品購入に12000フランという莫大な額を拠出し、作者を表彰した」と見学案内に書いてある。
退廃期のローマ人 トマ・クチュール 1847年
2.オリエンタリズム

テピダリウムTepidarium テオドール・シャセリオー(1819-1856)の作品。

見学案内には、画家が、1846年7月、アルジェリアを訪問した「旅行の間に慣れ親しんだ女性の類型、ハーレムの煽情的雰囲気などの印象を古代主題に投影した総括である。当時の湯治場におけるぬるま湯であった微温浴室という、古代ローマの暗示は、オリエンタリスムに染まっている。」と書かれている。
テビダリウム テオドール・シャセリオー 1853年
また、「オリエンタリスムは、多彩な輝きに時には潜在的荒々しさが加わった、19世紀の中産階級の顧客が好んだエロティックな創造の産物となっていった。」という。

【余談】 テピダリウム(微湿浴室)は、古代ローマの温浴施設の一つだそうで、床暖房方式で過熱していた(公益社団法人日本サウナ・スパ協会ホームページ「サウナ健康読本」)。しかし、この絵では、中央に囲炉裏のようなものが熱源になっているように見える。

3.クールベの写実主義

荒れた海、又aguevは波La mer orageuse dit La vague ギュスターブ・クールベGustave Courbet(1819-1877)

クールベは、農村地域に生まれ、海を見ないで育ったという。パリに出てきて画家を志したころから、ノルマンディ海岸やエトルタ岬に通ったそうだ。曇天のもと、大きな雲が沸き上がり、大きな波が押し寄せてくる海景は、恐ろしいまでの力を感じさせる。
荒れた海、または波 ギュスターブ・クールベ 1869年
【余談】オルセー美術館は、クールベの代表作や話題作を収蔵しているらしいが、今回見たのは、この作品のみだ。オルナン(フランス、ドーブ県)というスイス国境に近い農村地域の町に生し題としている。オルナンには、クールベ美術館がある。また、最近、日本で話題になっているブザンソンから南東約25kmの位置にある。

4.印象主義の初期

草上の昼食 Le Dejeuner sur I'herbe エドゥアール・マネ Edouard Manet(1832-1883)

画家の代表作といわれるそうだが、不思議な絵と思った。「見学案内」には、「川に浸る浴女を頂点とするピラミッド図の上に構築された野外ピクニックは、芝居がかった人工的な何かがある。」と書いてある。男同士は何か話しているようだが、二人のうち一人は水浴から上がろうとし、もう一人はこの絵を見る人を見つめている。なぜ裸体なのか。「あるゆる解釈と幻覚を抱かせた」という。右側の女性の顔は、当時の有名なモデルで、ヴィクトリーヌ・ムーランという人のものださうだ。
草上の昼食 エドゥアール・マネ 1862-1863年
ドラクロア礼賛 アンリ・ファンタン=ラトゥール(1836-1904) 

この作品は、「巨匠(ドラクロア)の肖像を囲む賛美者たちを描き、称えた」というのだ。ちなみに、ドラクロア(1798-1863)は、「自由で激烈な彩色を主張し、印象主義到来に重要な役割を果たした。」とされている。
ドラクロア礼賛 アンリ・ファンタン ラトゥール 1864年
タイガー狩り Chasse au tigre ウジェーヌ・ドラクロア(1798-1863)

この絵を見た時、一体何を描いているのかと思ったほどで、じっくり見ていると、馬上の男が虎と闘い、槍で突き刺そうとしている一瞬を描いていることが分かった。虎は馬の前足に食らいついている。
ライオン狩り ドラクロア 1854年
絵画編の前半をこれくらいにして、中休みとしたい。前日のルーブルではランチを食べ損ねたことから、早めに5階のカフェ、カンパナCafe Campanaへ向かった。すでに人の列ができていたが、少し待ったところで、テーブルに案内された。サラダSld NicoiseとミルクティGland Cafe Cremeを注文した。大きなお皿に盛られたサラダを食べきるのは大変だったが、なんとか残さずに腹に納めた。時刻は1時を回っていた。

カフェ、カンバナ 時計の針の間から雨に煙る市街が眺められた




2016年12月17日土曜日

仏独伊一人旅(20) 5月31日(火)午前 オルセー美術館の彫刻

1.蛇に咬まれた女 Femme piquee par un serpent オーギュスト・クレサンジェ(1814-1883)

中央通路を進み始めて驚くべき彫刻に出会った。1847年のサロンに出品され、「エロティックなフォルムで物議をかもした」ということだ。
蛇に咬まれた女 Femme piquee par un serpent 1847年
2.14歳の踊り子 Petite Danseue de Quatorze Ans エドガー・ドガ Edgar Degas

画家が制作した彫刻の一つ、この彫刻の1体目は、1881年、印象派展で展示されたろう制であるが、本作品は鋳造されたものである。
14歳の踊り子 Petite Danseue de Quatorze Ans エドガー・ドガ 1921-1931年鋳造
【余談】 2009年、ロンドンで行われたササビーズの競売で、アジア人のコレクターが1326万ポンドで落札したという。

3.地獄の門 La Porte de L'enfer オーギュスト・ロダン(1840-1917) 

巨大な彫刻である。オルセー美術館の前身「装飾美術館」用にロダンへ依頼されたが、計画が変更されたため、自力で完成させたと言われる。複製された門が7つあるそうで、そのうちの2つが上野と静岡にある。
地獄の門 オーギュスト・ロダン 1880-1890年 635×400×94 石膏
4.ウゴリーノ Ugolin  オーギュスト・ロダン

この彫刻は、ダンテの「神曲」地獄編に由来するそうで、恐ろしい物語があるようだ。
ウゴリーノUgolin オーギュスト・ロダン 1906年 石膏
5.壮年L'Age mur カミーユ・クローデルCamille Claudel(1864-1943)

ロダンの愛人であったという人の作品だ。
壮年L'Age mur カミーユ・クローデル 1895-1902年 ブロンズ
【余談】 「見学案内」(日本語版)には、「二人の女性の間で引き裂かれた男、ロダン。二人のうち、年上の方が勝った。永遠の恋人で将来の妻ローズである。カミーユ・クローデルは哀願者、捨てられた愛人のように自己を描き、・・・」とある。制作は、作者が31-38歳のときである。彼女は、その後、悲劇的な人生を歩んだようだ。※将来は、生涯の誤訳か誤植か。

6.奈落の底 L'Abime Just Becquet(1829-1907年)

何とも凄まじい印象を与える彫刻だ。見た時は、ドキッとした。
奈落の底L'Abime ジュス・ベケット 1901年 大理石
7.スチュムパリデス湖の鳥を仕留めるヘラクレス Herakles archer,ou Herakles tue les oiseaux du lac Ttymphale アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)

「1910年のサロンで紹介された作品は、批評家を唖然とさせた。」という。
スチュムパリデス湖の鳥を仕留めるヘラクレス
Herakles archer,ou Herakles tue les oiseaux du lac Ttymphale
アントワーヌ・ブールデル 1906-1909年 ブロンズ
8.歩く人 L'Homme qui marche オーギュスト・ロダン
歩く人L'Homme qui marche オーギュスト・ロダン 1907-1910年 ブロンズ

ここらあたりで、彫刻から絵画に移ろうと思う。

2016年12月3日土曜日

独仏伊一人旅(19) 5月31日(火)午前 オルセー美術館に至る経路、建物の由来 

6時起床、前日のメールをチェックしたりしたため、朝食が遅くなった。ホテルのバーが開いていたので、そこで食べた。9時に出発して、オルセー美術館に向かった。本日も雨、傘をさしてひたすら歩いた。ホテル前の通りからオペラ通りに出て、向こう側に渡り、真っすぐに進んでいくと、リヴォリ通りに至り、チュイルリー公園側に渡り、右(西)方向に進み、左側の公園の生け垣が切れたところで、公園に入った。
チュイルリー公園 中央通り コンコルド広場の大観覧車を望む
中央通りを通り越して進むとセーヌ河に至った。石の階段を上ると人だけが通れるレオポルド・セダール・サンゴールLoopold Sedar Senghor橋がかかっていた。
レオポルド・セダール・サンゴール橋から、オルセー美術館を望む
【余談】 レオポルド・セダール・サンゴール(1906.10.9-2001.12.20)は、旧フランス領に生まれ、フランスに留学し、第2次世界大戦には仏軍に従軍したそうだ。後にセネガル初代大統領になった人で、詩人としても良く知られているようだ。

ようやく美術館に辿り着いたが、雨の中長い人の列ができていた。インタ―ネット予約などをしないで来る人も多いわけだ。30分あまり並んで入場できた。

館内案内図(日本、中国、韓国語版)を入手してから階段を下り、0階(地上階)の「彫刻の中央廊下」へ進んだ。
中央廊下
【余談】 初めて分かったことだが、オルセー美術館は、かってフランス国鉄のオルセー駅であった建物が、保存と活用を考慮し1974年から改築が始まり、1986年12月に開館したという歴史を持っている。セーヌ河に沿った長い駅舎の丸い屋根を残し、両サイドに展示室が構築されている(0、2、5階)。入り口の上部に大きな時計が取り付けられているが、駅舎であったことを示している。
東側から見た中央廊下 前景左「世界を支える四つの部分」

2016年11月27日日曜日

独仏伊一人旅(18) 5月30日(月)夕刻 雨が降り続くなか、サクレー・クール寺院からムーラン・ルージュへ

メトロ2号線に乗って、アンヴェールに向かった。目的地はサクレ・クール寺院、寺院前の広場からパリ市内を眺めることが狙いだった。もっともこの日の天気では期待できないとは思ったが、もう一つの目的地に近く予約をしていたことから、変更しなかった。
メトロ2号線 Nation行き

駅に着いて地上に出ると、そこはロシュシュアール大通りで、雨が降っているにも関わらず大勢の観光客らしき人々が行き来していた。ステンケルク通りに入った。両側を土産物店が軒を連ねた通りで、しかも上り坂、モンマルトルの丘を目指しゆっくり登って行った。

登り切ったところで振り返ってみると、まるで清水坂のようだった。サクレ・クール寺院へ行くため手前の道を右の方へ進み、ケーブルカーへ向かった。

こじんまりとした駅Gare Basseで、小ぶりな"Funiculaireフニキュレール"に乗った。チケットは、メトロと共通だった。
上の駅Gare Hauteで下りるとサクレ・クール寺院の前だ。モンマルトの丘の見晴らし台のような人場で、観光客らしい人々がパリ市街を眺めていた。僕は、寺院内を拝観しながら少し休養したいと思って堂内に入った。
サクレ・クール寺院La Basilique du Sacre-Coeur de Monmartre
内陣では夕べのミサが行われていた。疲れもあってベンチに腰かけて休んでいると、司祭や信者の低い穏やかな声や歌が心地よく聞えてきた。
内陣
さほど多くない信者が司祭に導かれて祈りをささげていた。
内陣
パリ市街は雨のなかで静かに眠っているようだった。
門前の広場から見たパリ市街
地図を頼りに、ムーランルージュ【注】に向かって下りの坂道を歩き始めた。30分ほどで着くはずだったが、中華レストランでラーメンを食べたりしたので、1時間あまりかかって8時過ぎに辿り着いた。

インターネットで予約した時の情報では、入場は8時30分、開演は9時ということだった。入場までに少し時間があったので、向い側からぼんやり眺めていた。赤い風車は回っていなかった。
Moulin Louge赤い風車 レヴューFeerie妖精
開場時刻が近づくと人が並び始めた。僕も列の後に並んだ。ほどなく入場が始まり、チケットを交換し、セキュリティチェックを受けた後、階段を下りてホールへ進んだ。
BAL 入り口の踊り場 左手にショップがあった。
案内された席は舞台に向かって左手の奥だった。城内は、BGMの音や前方のディナー席の人たちが食事をしながら話をする声で賑やかだった。

席に着いてワインが運ばれてくるのを待っていたが、なかなか来なかったので、通りかかりのウエイターに声をかけて促した。運ばれてきたワインを飲みながら、まわりの様子を眺めていた。開演時刻が近づき、アナウンスがあったが、何を言っているのか分からずにいると、BGMからオーケストラの演奏に変わり、幕が開いて、レヴュー妖精Revue Ferrieが始まった。

レヴューは、プログラムによれば、「フレンチカンカン」、「海賊」、「ニシキヘビ」、「ドリスサーカス」、そしてアトラクションから構成されていたようだ。9時過ぎに始まり、途中の短い休憩をはさんで11時すぎに終わった。
ホールと舞台
外へ出ると、雨は小やみになっていた。帰りは、クリシー通りをメトロ12号線のPigalleピガール駅まで歩いてメトロに乗り、途中駅で3号線に乗り換え、Operaオペラ駅に着いた。ホテルに戻り、シャワーを浴びて直ぐ休むことにした。長い1日が終わった。明日㋄31日(火)は、オルセー美術館、エッフェル塔、セーヌ河下り、ノートルダム大聖堂、バスティーユ広場を訪ねる予定だが、天気が回復すればと思いながら・・・。

【注】 ムーランルージュ日本公式サイト 

2016年11月14日月曜日

独仏伊一人旅(17) 5月30日(月)午後、雨の降る中、凱旋門を目指し、シャンゼリゼ大通りを歩く

ルーブル美術館からリヴォリ通りに出て、通りを横ぎり向かい側へ渡った。クレープ屋でチョコレートを挟んだクレープを食べコーヒーを飲み一服してから、エリーゼ宮からシャンゼリゼ大通りへ、凱旋門を目指し歩き始めた。

コンコルド広場が左手に見えてきた。晴れた日には、右手にエッフェル塔が見えるところらしいが、かすかに見えただけだった。

【余談】 中央の塔は、ルクソールの塔といわれるもので、エジプト・ルクソール神殿前に建てられていたペアの塔の1つが、1931年、ルイ・フリップ王の時にパリへ運ばれてきて、1836年に建てられたという。
コンコルド広場 中央は、ルクソールの塔。
コンコルド広場を通り過ぎたところから、通りの名前がガブリエル通りAv.gaburielに変わった。通りの両側ともに樹々は新緑の葉を茂らせ、人の姿はほとんど見られなかった。暫くして左手にピエール・カルダン劇場が見えた。

エリーゼ宮通りへ来たところ、バリケードで通行止めとなっていた。そこで、ガブリエル通りを進み、ドゥ・マリニー通りを右へ曲がり、エリーゼ宮の外壁に沿って歩いていると、礼装の男(儀仗兵?)を乗せたバスが通用口らしいところから入っていった。
エリーゼ宮の通用口と警備員の詰め所
先へ進んで、フォーブール・サン トレノ通りとの交差点に至った。

マリニー通りとフォーブール・サン トレノ通りとの交差点(右側・エリーゼ宮)
そこを右に曲がってほんの少し歩いたところに入り口らしい門があり、2人の警官が警備していた。
フォーブール・サン トレノ通りに面したエリーゼ宮
入り口近くの警備車? (左の車両ではない)
エリーゼ宮通りを封鎖して、ここでは一人の警官が警備していた。
エリーゼ宮通り
フォーブール・サン トレノ通りに引き返し、シャンゼリゼ大通りへ向かった。雨の中、歩いていると、著名なブランドの店舗があった。その中の一つ、カバンで良く知られた店に入ってみた。入り口には、警備員のような男が立っていたが、遮られることはなかった。1階を見て回ったが、どのコーナーでも女性客が店員と向かい合って品定めをしているようだった。

外へ出て、また雨が降るなかを進んだ。刈り込まれた街路樹脇に凱旋門が見えた。
凱旋門が間近に
【余談】 凱旋門は、正しくはエトワール凱旋門というのだそうだ。この辺りがかって星の広場(エトワール広場)と言われていたことから来た呼び名である。1806年ナポレオン・ボナパルトの命で建設が始まり、1836年ルイ・フィリップの時代に完成し、ナポレオンは死後1840年パリに改葬されたときにくぐったという歴史がある。
凱旋門全景
 凱旋門の地下には、第1次世界大戦の無名戦士の墓がある。横断歩道を東側に横切り、凱旋門への地下道に入り進むと地上に出た。南側(向かって左側)の柱のたもとには、花輪が捧げられ、灯がともされていた。
第1次世界大戦の無名戦士を弔う灯
上に登れたらしいが雨で曇っていることや先にいうところがあるので、再び地下道を通ってシャンゼリゼ大通りへ戻り、メトロの駅Chaies de Gaulle Etoileheを探した。メトロのマークが見つかり、8号線に乗ってAnvers駅へ向かった。

2016年11月13日日曜日

独仏伊一人旅(16) 5月30日(月)午前 ルーブル美術館(1)


雨が降っていた。気温も低く、セーターを取り出し来てでかけた。途中のカフェ―でパンとコーヒーで朝食とした。オペラ通りを黙々と歩き、コメディフランセーズの前で右折し、リシュリュー通りを進んだところがルーブルだった。良く知られたガラスのピラミッド(美術館への中央入口)に近づくとすでにかなりの人が並んでいた。
ドゥノン翼の外観 建物の向こう側をセーヌ川が流れている。
チケットを持たない人の列に並んだ。30分余り経って足元が冷えてきたころ、入場が始まった。携帯電話で予約をしていた人は画面をかざすだけで入っていくのを見て、しまったと思った。エスカレータで下りたところが半地階のナポレオン・ホールと言われるフロアで、ここで入場料を払い、音声ガイドを借りた。
半地階 ナポレオンホール
館内案内カウンターで「見取り図と館内のご案内」(日本語版、以下「ご案内」)をもらった。それによって、美術館は、①ガラスのピラミッド(1989年、ナポレオンの中庭といわれる中央に建設された)を囲むように3つの翼、ドゥノンDenon翼、シュリ―Shully翼、リシュリ―Richelieu翼から構成されていること、②予定した15時までの時間では全体を見ることは不可能だということ、③収蔵品は各翼の半地階から1階、2階、3階の4層に、⒒の時代と地域の区分に分けて展示されていることなどが分かった。

どのように見ていくか。明確な計画を立てずルーブルを見たいと思って訪れた人間のために、「ご案内」には、各階のお勧め4点、合計16点の作品名、展示室番号、その場所が示されていた。これだと思い、そのガイドに沿って進むことにした。

(1)ジョコンダ 通称「モナリザ」 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1503~1506年頃
 
ドゥノン翼の2階展示室6へ向かった。すでに大勢の人が作品の前で写真を撮っていた。
”ジョコンド” 通称モナリザ
同じ階に展示されていた絵画のなかで写真を撮った19世紀フランスの重要作品

(美術館最大サイズの絵画) カナの婚礼 パオロ・パリアーゼ、通称ヴェロネーゼ 1562~1563年 666×9901cm
"カナの婚礼”
(皇帝の栄光) ナポレオン1世の戴冠式 ジャック ルイ・ダヴィッド 1805~1808年 621×979cm
"ナポレオン1世の戴冠式"
(2) 新古典主義とロマン主義の対立 ジャン オーギュスト ドミニック・アングルの2作品。

オダリスク(グランド・オダリスク) 1814年
"オダリスク"
トルコ風呂 1862年 シュリ―翼3階展示室60
”トルコ風呂” 
(3)サモトラケのニケ ドゥノン翼のダリュの階段の踊り場に据えられた大理石の彫像。高さ245cm、台座を含む高さ328cm

サモトラケはエーゲ海に浮かぶ島、ニケは勝利の女神。船首に立ち強い風に向い翼を広げる雄々しさは女神とも思えない姿ではある。
"サモトラケのニケ" 
(4)アフロディーテ 通称ミロのヴィーナス メロス島、紀元前100年頃、大理石、高さ211cm ドゥノン翼1階展示室16
 
大勢の写真を撮る人の姿が見られたが、そのはずで、ここに愛の女神アフロディーテ、通称「ミロのヴィーナス」の彫像があった。現代のギリシャ語でメロス島をミロというそうだが、この彫像は、この島の農地で発見された。
”ミロのヴィーナス”
(5)2体の奴隷像

同じドゥノン翼1階展示室4で見たミケランジェロ・ブオナㇽローティ(通称ミケランジェロ)「瀕死の奴隷」 と「抵抗する奴隷」の2体の奴隷像。1513~1515年頃
”瀕死の奴隷”
”抵抗する奴隷”
(6)古代エジプト タニスの大スフィンクス 古王朝 紀元前2600年頃 シュリー翼1階展示室14
タニスの大スフィンク
 棺 シュリ―翼1階展示室14
”棺”
巨大な花瓶 キプロスのアマトゥスで出土したらしい。一体何に使われたのか、不思議な遺物。
"Vase Colossel" 巨大な花瓶
(7)イスラム美術

”モンソンのライオン(獅子の香炉)” 12~13世紀 ドゥノン翼半地階展示室B
獅子の香炉
昼飯も食べず(レストランの入り口ℬ並ぶ長い人の列を見てあきらめたこともある)、見続けてきたが、歩き疲れと渇きのため休みたかった。ナポレオン広場に戻って、飲み物の売り場を見つけ、水を求めた。ほっとしたところで時計を見ると、2時を回っていた。

そのまま、人の流れに沿ってショッピングセンターのような店舗が連なる通路を出口らしき方へと進んだ(そこは、ギャルリー・デュ・カルーセルというモールだった)。そして、リヴォリ通りに出た。雨が降り続いていた。

【参照本】 ①「ご案内」、②美術館で購入した「ルーブルのすべて 作品/宮殿の歴史/建築」(日本語版14.5€)