2018年11月29日木曜日

中国一人旅その1(18) 6月10日(土)午前 日支事変、盧溝橋を渡る

今回、北京を訪問した目的の一つが盧溝橋事件(七七事変、日中戦争の発端となったところを訪ねることであった。

ホテルを出て、西単駅に向かった。地下鉄1号線で軍事博物館まで行き、9号線に乗り換え、七里荘駅で下車し地上にでた。ここまでは出発前に調べて来たが、ここから先は、地図アプリでタクシーに乗ろうとした。ところが、なかなかタクシーを捕まえることができなかった。10分余り経ってようやく捕まえ乗り込んだ。「盧溝橋」を目指し走り始めてからあまり時間がたたないうちに宛平城門前に着いた。城門を背に西へ進むと盧溝橋だ。
盧溝橋東橋詰
盧溝橋(欧州では、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくることからマルコ・ポーロ橋というそうだ)は、北京の西南15㎞に位置し、永定河(かって、盧溝河といった。)に架かる石造りのアーチ橋である。東から西へ往復したが、石を敷き詰めたところはやや歩きづらかった。
金の時代1189年架橋工事が始まり1192年に完成したという。全長(東西)266.5m、広さ(幅)9.3m、橋脚は10本でアーチが11個ある。欄干には獅子の石刻(501個)が乗せられている。

盧溝橋事件(中国では七七事変)は1937年7月7日、日本軍(支那駐屯軍、司令官代行橋本群)と中国軍(冀察政務委員会第29軍、軍長宋鉄元)の衝突事件であった。事件は現地で4日で休戦しそうだが、日本軍の増派から日中戦争(支那事変、1945年日本軍の降伏まで8年間)の発端になったという。
盧溝橋を背に自撮り
【余談】盧溝橋事件に関して言えば、日本兵の増派を決定した時の近衛首相(1937年6月4日就任)の情勢判断の誤りは否めない。この後、近衛首相は日中間の事変解決・和平に取り組むが、所期の目的を達することなく1939年1月5日に辞任した。

2018年11月21日水曜日

中国一人旅その1(17) 6月9日(金)午後 瀋陽から北京へ

ホテルに戻ってから急いで荷物を受け取り、地下鉄で瀋陽北駅から瀋陽駅へ移動した。高速鉄道の乗車口は人だかりができていて、押し合い状態だったが、そうしたなかで少しずつ動き、エスカレーターで2階コンコースに出た。
両側に改札口があり、その上に列車の案内板が取り付けてあった。列車番号と出発時刻でホーム番号を確認してから、ファストフード店でホットドッグのようなパンを買い、ベンチに腰掛けて食べた。
瀋陽駅コンコース
 発車時刻の30分ほど前だったと思うが、改札が始まった。列に並んで改札口を通り抜け、4-5番ホームへエスカレータで降り、広々としたホームを歩き、最後部の8両目に向かった。
4-5番ホーム
和諧号220号北京南駅行き8号車の入り口には、若い女性の客室乗務員が立っていた(失礼とは思いながら後から撮影)。ホームはシンプルで清潔だった。
5番ホーム 北京南駅行き13:30発・和諧号220号・8号車(最後尾)
10席ほどの特等座席に2,3人が乗っていたが、途中乗り降りがあり、終着駅まで乗っていたのは僕だけだった。列車は農村地帯を走り抜け、北京南駅にはほぼ定刻の17:28に到着した(乗車時間は3時間58分)。

地下鉄に乗り換えようと、案内表示に従って歩いたが、折から退勤時間で人の流れが非常に多かった。なんとか目指す4号線ホームにたどり着き乗車、宣武門駅で下車したのち、西単方向に向かって10分ほど歩きホテルに至った。
ホテル内の中華料理店で夕食をとり、部屋に戻って翌日の予定を確認したのち身のまわりを整理し休んだ。

2018年11月19日月曜日

中国一人旅その1(16) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(3)方城、宝頂、地宮

隆恩門を通り抜け入ったところが方城であった。1644年(順治元年)に建立された。城高6.15m、南北146m、東西120m、方城と呼ばれる所以か。ここで、祭祀が行われたそうだ。
隆恩殿、二柱門と石祭大、月牙城が神道に沿って一直線に並んで建てられ、さらに月牙城の上には大明楼が建ち、地中には地宮が配置されているという。

隆恩門をくぐって直ぐの東西に配楼、その先に配殿が建てられていた。
方城の中央:陵恩殿 右:東配殿 左:西配殿
東配殿
東配殿
西配殿

ここも改修工事中で中を見ることはできなかった。入口脇の案内版によれば、清王朝初期に建てられ、ここでラマ教の僧侶が死者の命日に魂を救うために読経したという(清汪朝ではチベット仏教が広く信仰されていたらしい)。
西配殿
西配殿と陵恩殿の間、通路脇に焚帛亭と呼ばれる大きな石灯篭があった。中には祭祀の際に使われる松明を燃やす円形の火池が作られていた。
焚帛亭
隆恩殿(またの名、享殿)は、1643年(崇徳8年)に建設が始まり1650年(順治7年)に完成し、名称が定まったという。
隆恩殿
隆恩殿の内部はホンタイジとその妃の祭祀の場所であったというが、白く埃っぽい感じがして宗教的儀礼の場という雰囲気ではなかった。とは言え、祭壇(または厨子?)の前に5つの陶器(中央:香炉、左右:華瓶、燭台)が並べられ、これらは次の石祭台に置かれている5つの石彫と同じような意味をもつ、仏教でいわれる三具足と思われた。
隆恩殿内部、主要な祭祀の場所
次に、二柱門と石祭台(またの名前、沖天碑楼、照碑)は、隆恩殿の裏(北)側、月牙城との間に据えられていた。二柱門は改修工事のためよく見られなかったが、石祭台には5つの石彫(中央が香炉”海山”、その両側は有香瓶、両端は燭台)が置かれていた。
手前:石祭台 奥:二柱門
方城の歩道から見ると、隆恩殿(左・南側)、二柱門と石祭台(中央)、明楼(右・北側)が南北の並んでいることがわかる。
左:隆恩殿、中央:二柱門と石祭台、右:月牙城・明楼
角楼は方城の四隅に建てられていて、屋根の形が変わっている。中心にガラスで輝くような大きな瓶が取り付けられ、廂の先には風鈴がぶら下がっていた。兵士が上って周囲を監視していたそうだ。
東北隅の角楼
月牙城は、方城の壁(右(南)側)と宝城(左(北)側)に囲まれた新月の形をした特殊空間で、方城との間を上下する階段が設置されている。方城の通路を抜けた先、左側の宝城の壁に地宮への入り口、昭壁があった。城高約6m、周囲96mという。
月牙城と昭壁 
 宝頂は、白灰、砂子、黄土(三合土という)を用いて盛り上げられているという。高さ7m、周長は110mで、中央に楡の木が植えられていた。この下にホンタイジとその妃の骨灰を祭る地宮が設置されているという。
中央の饅頭:宝頂 右下:昭壁
 方城の見学を終え、出口を出ると3人の女性が踊りを披露している最中だった。
北陵公園前の広場で踊る3人の女性
北陵公園の前、南側には広い北陵大街が走っていた。これと交わる東西の道は泰山路という。
北陵太街
泰山路を右(西)へ地下鉄北陵公園駅へ向かった。

2018年11月3日土曜日

中国一人旅その1(15) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(2)大碑楼、隆恩殿、方城

正紅門の君門から中へ入ると、神道が北に向かって真っすぐに伸びていた。その先に大きな大碑楼があった。

大碑楼 神功
大碑楼の中に、「清昭陵神功聖徳碑」と呼ばれる巨大な石碑(50屯)が建てられていた。乾隆27年(1688年)のことで、ホンタイジの一生、文治武功が書き記されているそうだ(1810字)。
大碑(下部)
天井を見上げると見事な模様が描かれていた。
大碑(上部)天井
床は4隅が木の柵で囲まれ、四隅に龍の浮彫が置かれていた。これはどういう意味を持っているのだろうか。
大碑(足元、東南角)
さらに北へ進むと隆恩門が聳えていた。方城の正門に当たり、建立は1644年(順治元年)、城高6.15m、南北146m、東西120mという。
隆恩門正面(南側)
門の閂が通路の脇に、箸置きならぬ閂置きに寝かされていた。
閂(かんぬき)
門扉と閂の穴から閂は相当太いこと、方城内への守りは硬かったと思われる。
閂扉と閂の穴