2018年1月4日木曜日

独仏伊一人旅(52) 6月5日(日)午前 アッピア街道を歩く(2)

しばらく歩いていると乗馬の男二人とすれ違った。
馬に乗って街道を行く男二人
つぎにCapo di Bove(浴場 thermae) を目指したが、入口を見落とし通り過ぎてしまった。街道の両側に残る遺跡の多くは墓で、住居跡は少ないので浴場跡を見たいと思っていたが、見逃してしまった。

さて、現地で購入したガイドブック ・the・appian・way・guide〈英語版、Mondadori ,2015,英語版、8€)で取り上げられているTomb墓をいくつかを紹介したい。

(1)The Doric Tomb

古代ギリシャの祭壇型の墓らしく、火山凝灰岩の塊に彫られたものだそうだ。外側の中央に見える浮彫の飾りが特徴という。
The Doric Tomb
(2)The Funerary Monument of Tiberius Claudius Secundus of Philippi

チベリウス・クラウディウスの葬儀記念物あるいは碑と言われるもので、大きな再現された碑文から紀元1世紀の半ばから2世紀初期の間のものという。
The Funerary Tiberius Claudius Secundus of Philippi
(3)The sepulcher of the Rabiri

ラビリ(ラビリウス)の墓
The sepulcher of the Rabirii
(4)The so-called Tombs of the Festoons and of the Frontspiece

写真中央の墓 the Festoons、右側の墓 the Frontspiece

The Tombs of the Festoons and of the Frontspiece
【余談】年末から体調不良となったためブログを書くスピードが落るなどもたついているうちに、新しい年2018年が明けた。漸く回復してきたので、書き始めることにした。

(5)Tomba a Piramide (Mausoleo Pramidale) ミラミッド墓

この遺跡に関する説明は、ガイドに見当たらなかったが、地図に記入された名称から、原形はピラミッド形であることや位置が第5マイル地点に近いSanta Maria Novaサンタマリアノッヴァから少し南へ進んだところと思われた。
Tomba a Piramide
次に少し北へ戻って、サンタ マリア ノッヴァSanta Maria Novaを経て、クィンティルスのヴィッラVilla dei Quintlliへ向かった。時計は12時30分を回っていた。

2017年12月5日火曜日

独仏伊一人旅(51) 6月5日(日)午前 アッピア街道を歩く(1)

6時に目が覚め、顔を洗ってから朝食を食べに行った。今日もかなり歩くことになりそうなのでしっかり腹に収めておいた。

8時過ぎホテルを出発、地下鉄テルミニ駅からAラインに乗りコッリ・アルバー二Colli Arbani駅で下車した。地上に出るとバス停が目の前にあった。バスのチケット売り場が見当たらなかったため、やむなく地下鉄のチケットを出したところ乗ることができた。予め調べておいた600番のバスが来たので乗車した。

バスは市街地を右左に曲がりながら通り抜け、チェチリア・メテッラ通りVia di C.Metellaに入りアッピア・アンティカ街道(旧街道)Via Appia Anticaに突き当たったところが終点で下車した。

バスを降りた丁字路の一隅にカフェAppian Way Cafeがあったので、サンドイッチと水を買い歩き始めた。最初の目的地はMausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟である。
 アッピア街道(旧街道)Via Appia Antica
【余談】アッピア街道(旧街道)Via Appia Anticaは、紀元前312年アッピウス・クラウディウス・カエクスによって建設され、起点はローマ市内のサン・セバスティアーノ門で、その後前244年までにプルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延ばされた。全長560kmという。街道には1マイル(ローママイル、1000歩、約1.48km)ごとに大理石のマイルストーン(里程標)が建てられたといわれ、現存しているそうだ。
ちなみに、訪ねたMausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟は起点から3マイルほどのところにある。マイルストーン1から10まではアッピア街道州立公園内を走っている。
1784年にアッピア街道(旧街道)Via Appia Anticaと並行して走る道路が建設され、こちらはVia Appia Nuovoと呼ばれている。

石を敷き詰めた通りを歩くことは楽ではない。凸凹があって躓きそうになることもあった。よく見ると石のなかには荷車や馬車、あるいは戦車のわだちですり減ったものもあって時代を感じさせたが、敷き詰められて整っている様子から敷き直されたと思った。
アッピア旧街道の表示
しばらく歩いて、Mausoleo di Cecilia Metellaチェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟に着いた。街道の東北側にあった。
チェチリア・メテッラ・エ・カストルム・カエタニ霊廟の全景
【余談】この霊廟に眠る人物はローマの貴婦人、紀元前69年執政官ConsulであったQuintus Caecilius Metellusチェチリア・メテッラの娘という。

円形の墓tomb
建物に比して入り口は小さかった。階段を上って入ると直ぐ右手に受付のような小屋があった。
入り口
そこで、入場券を求めたが、この日は6月第1日曜日に当たりすべての公共施設が無料開放されていたので、支払わずに入場できた。
入り口から入ったところ
様々な出土品が展示されていた。
展示物(1)

展示物(2)

展示物(3)
円形の墓の内部をのぞいてみた。
円形の墓の内部
建物の内部を紹介しよう。1階と地階が開放されていた。
建物の内部(1)

建物の内部(2)

建物の内部(3)
古代の建造物として紀元前に遡るということで驚くばかりであったが、石棺が見あたらなかった。見落としたのかそれとも別の博物館などに保管されているのだろうか。
ともあれ、先へ進むことにして再び街道を南へ歩き始めた。

2017年11月18日土曜日

独仏伊一人旅(50) 6月4日(土)夕刻 サン・ピエトロ大聖堂を出て地下鉄オッタヴィアーノ駅へ

外で出た。時計を見ると6時に近づいていたが空は青く、サンピエトロ大聖堂の影が長く広場まで届いていた。
サンピエトロ広場
【余談】広場は幅240mの楕円形で、中央にオベリスク(塔)が建てられ、周りを4列372本のドーリア式円柱による列柱廊が取り囲んでいた。広場には円柱の中心centro del colonnatoというマークがつけられた「特定の場所」があって、そこに立つと4本の円柱が1本に見えるそうだ。

右(南)の方にちょっとした人だかりができていたので好奇心で歩いていくと、衛兵の交代かと思われる場面だった。
衛兵の交代か? 
さすがにこの時間では、コンチリアツィオーネレ通りに巡礼者の列はなくなっていた。
巡礼者の参道 コンチリアツィオーネレ通り
帰りは地下鉄Aライン・オッタビアーノ駅から乗ることにして、バチカン美術館の壁に沿って進んだ。このルートを選んだ結果、サンタンジェロ城に寄ることができなかった。
バチカン宮殿の壁
ついでに美術館の出口を確かめておこうと思い寄り道をした。壁をくりぬくようにつくられていたので、意外に思った。
バチカン美術館の出口
地下鉄Aライン・オッタヴィアーノ駅への入り口にようやく辿り着いたが、乗り降りする人は少なく、ホームでも人の姿はまばらだった。
Aラインオッタヴィアーノ駅への通路
ホテルに戻り少し休んでから夕食を取りに外出した。前日カヴール通りでホテルから少し離れた中華レストランの看板を見かけたGrande Secoloに入りイタリア風中華料理を食べた。
ホテルに戻り、翌日の工程(午前、アッピア街道。午後、フォロロマーノ)を確かめて就寝した。

2017年11月11日土曜日

独仏伊一人旅(49) 6月4日(土)夕刻 サン・ピエトロ大聖堂(2)内陣

(1)玄関廊(アトリウム)

地上に下りて改めて玄関廊に進んだ。円柱や角柱に支えられた天井を見ると金色に輝いているようだった。左側にはいくつかの扉が並んでいた。
玄関の天井
 (2)聖年の扉(聖なる扉とも、Porta Santa)

アトリウムから内陣に入る5つの扉のうち右端の扉は聖年の扉と言われる。2016年(2015年12月8日~2016年11月20日)は特別聖年とされ、扉が開かれていた。通るには予約が必要だったようで、僕は入れなかった。
聖年の扉
【余談】聖年は1300年に始まり、25年ごととされている。前回は2000年で大聖年とされた。聖年の年にこの扉は開かれるが、通常は内側に塗り固められているという。
2016年は就任2年となったフランチェスコ教皇によって特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)とされ、この年は「信者はが特別の赦しを与えられる」とされ、聖なる扉が開かれ巡礼者が多くなるそうだ。

(3)後陣 玉座の祭壇(聖ペトロの司教座とも)

上部へ上ったときに撮影した写真だが、見たところすでにミサが始まっていたようでかなりの数の信者が祈っていた。
上部から見た後陣 玉座の祭壇
 (4)クーポラ(Cupola ドーム)

まことに見事なものだ。中央の丸い穴のように見えるところは明り取りであろうか。
クーポラの丸天井
 (5)上部の回廊

エレベーターをおりたところで回廊があった。窓から光が差し込んでいた。回廊は2/3くらい歩くことができたが、金網が張られていて1階の床を見下ろすことはできなかった。この写真とこの前の2枚はともにその網の目から撮ったものだ。
上部の回廊
(6) 青銅製の大天蓋(パルダッキーノ)

内陣の中央部、クーポラの真下に青銅(ブロンズ)製の大天蓋(パルダッキーノ)があった。ねじれ状の柱の間を通して玉座の祭壇が見えた。中央のステンドグラスが輝いていた。表面の色が黒ずんでいたためか、ちょっと異様な感じがした。
青銅製の大天蓋
【余談】大天蓋はウルバヌス8世(教皇の在位1623‐1644年)の命で1924年に着手、1933年に完成したという。この天蓋の真下には聖ペトロの墓があるそうだ。設計・製作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニという人で、大聖堂のいろいろな箇所で仕事を残している。

(7)身廊 上部から差し込む西日
身廊 上部から差し込む西日
時計をみると6時近くになっていた。見どころはまだまだ沢山あるようで残念だったが、歩き疲れた見てまわる元気がなく外へ出た。

2017年10月24日火曜日

独仏伊一人旅(48) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂(1)クーポラの展望台から 

サンピエトロ大聖堂

(1)バチカン宮殿への大扉

大聖堂に向かう途中で見た、17世紀に造られたブロンズ製の大扉である。長い槍を持った衛兵が守備していた。
バチカン宮殿への大扉
【余談】衛兵はスイス人の傭兵だそうで、創設は1506年、ユリウス5世の時代という。制服の色、青・黄・赤はメディチ家の色だとか。

(2)クーポラCupola(ドーム)の展望台から

大勢の人が大聖堂に入っていた。案内表示に従って大聖堂の上部へのエレベーターとクーポラの展望台に上るチケット売り場に進み、購入した(8€)。
上部に着いて周りを回ったのち、いよいよ階段を上り始めた。何段あるのか(320段とか)、だんだん狭くなり、最後にはまっすぐ立てず壁に手をつきながら黙々と上った。
歩廊を回りながらローマ市内を遮るものもなく一望することができた。
前方中央の通りが巡礼者が大聖堂を目指して進んでくるコンチリアツォーネ通りという。その先にテベレ川が見えた。右手はるか前方にはコロセウムも見たように思う。

クーポラの展望台から眺望
歩廊を北方向に回ると、先ほどまで見学していたバチカン美術館の全景が見えた。右下に半分ほどだがシスティーナ礼拝堂の屋根が見えた。中央前方には、ピィーニャの中庭も見えた。中央に見えるのは入らなかったけれどもベルヴェデーレの中庭だ。
バチカン美術館
西方向を見ると、法王庁の建物が見下ろすようなところにあった。西日を背に受けてやや暗い感じがしたが、緑の庭園にあってバチカン市国政庁でありカソリック教会総本山ともいえる威厳を備えているように見えた。
法王庁
清々しい気分になって、クーポラの階段を降り、エレベータで地上に戻り、堂内を見学した。

2017年10月17日火曜日

独仏伊一人旅(47) 6月4日(土)午後 サン・ピエトロ大聖堂へ移動する道すがら 

外へ出て見ると、朝来た城壁沿いの歩道には美術館に向かう長蛇の人の列が並んでいた。その人たちと逆行するように、サン・ピエトロ大聖堂へ向かって歩きながら昼飯が食べられるカフェは探した。教皇庁への入り口サンタンナ門の前で、ボルゴ・ピオ通り Borgo pioに左折してすぐ右側にカフェ・ サンタンナCaffe' Sant' Annaがあった。

料理とアメリカンを注文して待っていると出てきた料理がこれだ。何という名前だったか忘れたが、レシートを見ると12.5€だった。空腹だったから骨を残すだけですっかり食べた。
何という料理?
さて、テーブルの隅にあったつま楊枝の入れ物に、”OSAKA”と印刷されたラベルが貼ってあって、興味が引かれた。”500 Stuzzicadenti/ Extrafini ”は辞典によれば「500本のつま楊枝/ 極細」ということらしい。しかも両端が細く削られていた。
つま楊枝 ”OSAKA”
食べ終わりしばらく休んでから、大聖堂に向かった。

2017年10月15日日曜日

独仏伊一人旅(46) 6月4日(土)午後 バチカン美術館(7)インマコラータ(無原罪の処女マリア)の間、ラファエロの間、システィーナ礼拝堂

8.インマコラータの間 Sala dell'Immacolata

部屋の中央、壁寄りに無原罪の処女マリアの像が人々を見下ろしているように見えた。4面の大きなフレスコ画は、「1854年12月8日にマリアの無原罪の御宿りの教理が布告されたことを記念して、教皇ピウス9世に依頼された画家フランチェスコ・ボデスティにより、1858年に装飾された」という。
無原罪の処女マリア
9.ラファエロの間 Stanze di Taffaell

インマコラータの間の先がラファエロの間であった。4つの部屋を、教皇ユリウス2世の依頼を受けたラファエロとその弟子たちが1508年から1524年までにフレスコ画で装飾したそうだ。署名の間が最初で1508‐1511年と言い、ヘリオドスの間、ボルゴの火災の間、最後がコンスタンティヌスの間である。

コンスタンティヌスの部屋のフレスコ画は、「ラファエロの死後(1520年)、彼の下絵に基づき、弟子たちによってフレスコ画が装飾された」という。その中の2点を紹介したい。

(1)ミルウィウス橋の戦い Battaglia di Ponte Milvio

この戦いは、312年10月28日、2人の皇帝コンスタンティヌス1世とマクセンティウスが率いる軍の間で争われたいわば天下分け目の戦争である。激しい戦いの末、前者が勝利を勝ち、「ローマ帝国の西半分」を支配することになった(西方西帝というそうだ)。
ミルウィウス橋の戦い ジュリオ・ロマーノ
【余談】ミルウィウス(ミルヴィオ)橋はローマ北郊にあり、テヴェレ川にかかる重要な橋の一つ、フラミニア街道が通っている。

(2)コンスタンティヌス帝の洗礼

もう一つが、これである。コンスタンティヌス1世の在位は、西正帝として312‐324年、全ローマ皇帝として324-337年という。313年ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認した。かくてキリスト教の今日にいたる政治的社会的基盤を用意したことになった。
コンスタンティヌス帝の洗礼
【余談】ミラノ勅令は、312年2月にコンスタンティヌス帝(西方正帝)とリキ二ウス手帝(東方正帝)とミラノで会見した際に発っせられたとされ、キリスト教の信教の自由を認めた(全帝国市民の信教の自由を保障したとされる)。

10.現代美術コレクション Collzione Arte Religiosa Contemporanea

システィーナ礼拝堂に進んだつもりだったが、その入り口近くで、これまでとは全く異なる絵画をみることになった。ここには、バチカン美術館が保有する約700点の絵画、グラフィックアート、彫刻が含まれるコレクションの一部が展示されていた。

Pieta Rouge 赤いピエタ
Pieta rouge  赤いピエタ マルク・シャガール 1956年
【余談】ピエタは、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのち十字架から降ろされたイエス・キリストとその亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことを言うそうだ。

11.システィーナ礼拝堂 La Cappella Sistina

漸くたどり着いた。2時を過ぎていた。内部の装飾は、「宗教絵画のシリーズで最も複雑なものの一つ」ということだが、大勢の人々が行き交うなかで壁面と天井を埋め尽くす絵をただ眺めるばかりであった。
写真を撮ることができなかった。代わって、バチカン美術館公式サイトからシスティーナ礼拝堂をゆっくりご覧いただきたい。

2,30分くらい居たか、思いを決して出口に向かった。ショップで家族への土産品としてメモ帳を買ってからよく知られた渦巻形のスロープを下って外へ出た。

※バチカン美術館編は、ショップで購入した図録「ヴァティカン」(日本語版)その他の記載によった。