2015年10月13日火曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(20) 5月30日(金)午後 ツェツィーリエンホーフ宮殿内部の見学


 門を通り抜け、しばらく歩くと宮殿前に着きました。入り口を入り直ぐ右側の扉を開けると入場券/博物館売店(写真、青色に塗りつぶした箇所)がありました。そこで、チケットと写真撮影許可証(紙製のリボンで、腕につける)を買いました(前者6€、後者5€)。
宮殿内部の配置図
宮殿の中庭 正面の建物の奥に会議場がある
 小豆色に塗りつぶされた地階(日本風に言えば1階)を廊下伝いに進み、東北角のソ連の執務室を見学した後、会議場に進みました。

 会議場では、参加国のソ連、アメリカ、イギリスの首脳スターリン、トルーマン(ルーズベルトの死去にともない副大統領から大統領に就任)、アトレー(チャーチルから政権交代で首相に就任)が三角形に配置された一列目の椅子に座り、その両サイドに外相、大使、通訳などが着席していました。2列目には、政治・軍事顧問用の椅子が用意され、さらにその外に、事務担当者用の机と椅子が配置されていました。丸テーブル(直径3.5m)の中央には、各国の小さな国旗が飾られていました。

【余談】 宮殿はソ連が占領していたことから、ホスト役を務めていました。これらの家具は、ソ連がモスクワの家具工場で製造し、運んだということのようだと記されていました。

ポツダム会談場 時計回り・右からソ連、アメリカ、イギリス
続いて、イギリス、アメリカの執務室を見学しました。壁に取り付けられた写真や説明文の中から、印象に残ったものを紹介します。

(1) ポツダム会談(正式には、Berlin Coneference)は、1945年6月17日に始まり、13回の会議を経て8月2日に終了しました。そのベルリン会談報告書のスターリン、トルーマン、アトリ―の署名(8月1日付)が展示されていました。
ベルリン会談と会議報告書の署名(下段中央)
(2) この会談中の7月16日、アメリカは原爆実験に成功しました。7月26日、トルーマンとチャーチルが署名し,蒋介石が電報を通じて署名したポツダム宣言が公表され、日本に無条件降伏を要求しました。そうした動きを背景に太平洋戦争の終結を物語る展示がありました。そこには、アメリカが開発した原子爆弾と広島に投下した時の写真が載せられていました。
太平洋戦争の終結を物語る展示
(3) もう一つ興味を引かれたのは、当時の新聞記事で、右から3枚目、”SUNDAY EXPRESS”の1945年7月22日の記事です。3巨頭の動きを伝える大見出しの下に、次のように書かれていました。

 ”Russia may issue ultimatum to Japan” ソ連は日本に最後通牒を突きつけるだろう

 7月22日の時点で、すでにこのような記事を載せた新聞が発行されていたことに驚きました。

【余談】 日本がソ連に和平仲介を求めて近衛特使の派遣を決めたのが7月12日、これに対し、トルーマンとチャーチル、そして蒋介石(当時、電報で意思を表明)によるポツダム宣言が7月26日、アメリカの広島への原爆投下が8月6日、ソ連の対日宣戦が8月8日、こうした連合軍側の動きが見えていなかったのだろうか、孤立した状況で読めていなかった歴史を振り返り学ぶ意義は非常に大きいと思う。
会談の終結などを報じる各国の新聞
【余談】 宮殿の案内書によれば、皇帝ヴィルヘルムⅡは皇太子の居城を構築するために基金を設立し、1913年5月6日、皇太子の31歳の誕生日に起工式が行われました。第1次大戦のため工事が一時中断されたり、再開されたりしましたが、最後は11月革命と1918年11月9日の君主制崩壊によって打ち切られました。
 皇太子夫妻は、妃が6人目の子どもを出産するため1917年8月14日、室内工事中に移ってきて居住しました。しかしながら、皇太子はオランダ滞在中の1918年11月13日に北海のある島に抑留され、皇太子妃は1920年11月26日まで子どもたちと踏みとどまったということです。
 ところで、皇太子妃の名前は、ツェツィーリエといい北ドイツのメクレンブルグ・シュヴェリーン大公の娘だそうで、宮殿の名称は皇太子妃に由来するのでしょうか。

 1時間余りの見学を終え、売店に寄り宮殿の案内書(何と日本語版がありました!)を買いました。次いで、ポツダム駅へ戻るため603番のバス停へ向かいました。


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