2016年4月23日土曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(51) 6月6日(土)午前 ダッハウ収容所を訪ねる(2)

まず、収容所の1945年当時の航空写真(前出のカタログの付属CDに収録)を紹介します。
この写真で示された1→3→2→6→21の順に、見学しました。
 1.玄関棟
 2.点呼広場
 3.管理棟
 6.収容所道路
 21.ガス室付き焼却場
ダッハウ収容所1945年4月20日   (上:西方向、下:東方向、左:南方向、右:北方向 PDF7.26より変換)
(1)管理棟のなかで、

管理棟の中は、大部分が展示室になっていました。見学者は、ガイドの説明を聞きながら、展示品を見ながら進んでいます。私は、日本語オーディオガイドを借りて、耳に付けていましたが、操作要領がよくわからず、途中から外して、説明文(英語版)の見出しを頼りに、見て歩きました。印象に残ったところを紹介します。
ガイド いずれの国の言葉か良く分かりませんでした。
(2)かってシャワー室だったところ
シャワー室だったところ
シャワー室だったところを示すガラスのパネル
(3)展示パネル1

1930年レマルクの小説をもとに作られた映画のポスター

ポスター(1)
宣伝ポスター(2)
(3)展示品
食器
素域医療器具
(4)展示パネル2 収容所とSSとのつながり

1933年6月収容所司令官に就いたテオドール・アイケTheodor Eicke(1892-1943)が、1933年から1934年の間に、導入した管理組織を示すパネルです。この人が、ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmlurの下で、収容所を統括していたことが記されていました。
収容所組織構造1933-1934
次の展示は、ダッハウ要員のキャリアパス”Career paths" of the Dachau Personnelというタイトルが付けられたパネルで、ダッハウでの在任期間とその後ポストが記されていました。このパネルには載っていませんが、前出のテオドール・アイケは、後に、全ての収容所の主席監察官、武装親衛隊Waffen SSの中将、SSの”Death's Head"の司令官(大将?)になったそうですが、1943年2月、飛行機墜落事故で亡くなったそうです。
収容所幹部の異動(栄進)
(5)展示パネル3 収容所の担った役割・機能
収容者は、様々な工場に労働力として派遣されていました。航空機や自動車の製造工場など、現在でも良く知られた名前を見つけ出すことができました。
収容者が労働に派遣された工場の一覧
丁寧に見ていくと、時間がどんどん過ぎていました。時計を見ると、午後1時を回っていました。緊張状態が続き、いささか疲れましたが、少し休んでから、外へ出ました。

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