2016年8月31日水曜日

独仏伊一人旅(8) 5月27日(金)夕刻 ボンからハイデルベルグを経て

5時前にボン中央駅に着き、地下通路を進んでDBの3番ホームに上がった。列車案内板に17:17発IC2311が表示されていることを確かめた。時間が迫って来るのに、列車が来る気配がなかった。ホームの駅員を取り囲むように何人かが何か言っているところに近づいたが、僕に理解できなかった。

人たちが去ったので、駅員にチケットを見せたところ、列車は運行中止になっているらしいことが分かった。入り口の方へ指さしているので、階段を下りて入り口側のホームに行ったが、案内所らしいところがなかった。もう一度3番ホームに戻って、駅員に助けを求めると、ホームではなく入り口に案内所があるらしいことが分かった。

再度、入り口側のホームに行き、入り口の方へ進むと案内所があった。すでに何人かのがが並んでいた。僕はその後について待っているとほどなくカウンターの前に出た。何か別の駅に行って代わりの列車に乗れと言っているようだけれど、それが分からず、チケットに書いてもらっていると、若いカップルが声をかけて手招きしてくれたので、彼らの後について外へでると右側に別の駅員とタクシーが待っていた。

どこへ行くのかチケットを見ると、ボイエルBonn,Beuel駅からIC1915に乗る、ハイデルベルグには⒛:40に着くと書いてあった。タクシーから外の風景を見る余裕がなくボーっとしていたのか、ライン川を渡った記憶もないまま、ボイエル駅に着いた。若者たちにお礼を言って、ホームに入った。列車の到着を待つ間に、ハイデルベルグで待ち合わせている息子へLineを使って電話をかけた。幸いうまくつながり、状況を説明し、待ち合わせ時間が予定より1時間近く遅くなることを伝えた。

【余談】 ボイエルBonn,Beuel駅は、ボン中央駅からライン川を挟んで対岸にあるボイエル-ミッテ地区にある駅である。

6時過ぎ、列車が到着し、乗り込んだ。座席指定ではないので、窓際の空いているシートに腰を下ろした。車内は空席が目立った。
7じ7時を回ったころ、車掌が検札に来た(刻印時刻は19:15)。ハイデルベルグに何時ごろ着くかと聞くと⒛:40とチケットに書いてくれた。そこで、息子に待ち合わせ時間が予定より1時間近く遅くなることをメールで伝えた。

暗くなった窓外を眺めていると、並行して流れるライン川が水嵩を増したように見えた。雨が窓をたたくように降るところあったり、小やみになったりした。メールの送信記録をみると、マインツを7時52分、マンハイムを8時31分に出たとなっている。ハイデルベルグが近いことが分かり、緊張した気分が少し和らいだようだ。
乗ってきたIC1915 ハイデルベルグ駅で
車掌が書いてくれたとおり列車は、⒛:40、ハイデルベルグ駅に着いた(当初の到着予定時刻は19:34だったから1時間余り遅く着いたことになる)。ホームに立って乗ってきた列車をみると、雨に汚れを洗い流されたかのように綺麗だった。列車案内には、シュツッツガルト行き⒛:06発と表示されていたから、この列車も30分以上遅れていたようだ。階段を上り通路を右へ進んでいたところで、息子がこちらを見つけて声をかけてくれた。
DBハイデルベルグ駅 実用的な駅舎?
駅前の駐車場で車に乗り、ネッカー川(ライン川の支流)に沿ってハイデルベルグ城に向かった。曇り空のうえ、時刻も9時に近かったため、城は川越しに小高い山のうえに見えたが、入場はできず、息子の住む地方都市へ向かった。アウトバーン6号線を走り、30分ほどでその都市に入った。

【余談】 アウトバーンには、速度制限がないところとあるところ(例えば、100km/h)がある。無い区間には道路標識がない。

ともあれ息子の自宅に辿りついたが、疲れた。シャワーを浴びてから彼が作ってくれた軽食を食べた。明日のニュルベルグなどへの行程を聞いてから、ベッドに入り休んだ。

2016年8月26日金曜日

独仏伊一人旅(7) 5月27日(金)午後 ボンでにわか雨に遭う

4つ目の停留所に着いたとき、その名前König MuseumのMuseumに引かれて下りてしまった。階段を上り、地上出口への通路を歩いていると大きな雷鳴が聞こえてきた。近くで落雷が続いているようだった。地上に出る階段の前で外を見上げると、土砂降りの真っただ中であった。

通路に戻り、周辺施設の案内板を見ると、目的の展示施設の名が見当たらなかった。その時、下りる停留所を間違えたことに気が付いた。言われた通り5つ目まで行くべきだった。ホームに下り、電車を待った。

1停留所分だけ乗り、Meussallee/Museumsmeile停留所で下りた。階段を上り通路を歩いて地上出口への階段前へ来たが、雨は止んでいなかった。しばらくして小雨nahahe になったので、階段を上り地上へ出た。前方(西方向)に、目的のドイツ連邦共和国歴史館Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland(日本語訳は筆者)らしい建物が見えてきた。

中へ入り、雨に濡れたバッグを拭き、クロークに預けた。パンフレット(展示ガイド、Our History.Germany since1945英語版、日本語版はなし。)を手にして、見学ルートに沿って歩き始めた。1945年から現代までを「1945-1949、1949-1955、1955-1963、1963-1974、1974-1989、1989-現代」に区分して様々な現物や写真が展示されていた。

1945-1949 過去の重荷 ドイツの分断
Liberation開放の象徴?
Occupation占領の象徴?
1949-1955 東西ドイツにおける建設と再建
Parliamentary Democracy議会制民主政
次の写真でもう少しゆっくり見て来たら良かったと思うことがある。背景の建物と右下の写真は分かったけれど、他のいくつかの写真や展示物は何を示しているのか皆目分からなかった。中でも、中央下部に取りつけられたケースのなかにピストルが置かれていたのには驚ろかされた。
建物:迎賓館ペータースベルグ 右下:初代首相アデナウアー
【余談】 建物は、1949-1955年の間、連合国高等弁務官府として使われていたという。現在は、シュタインベルガ―グランドホテルとして一般の人も宿泊できるようだ。
Communist Party Rule共産党ルール (戦車は前半分だけ)
1955-1963 冷戦と深まる分断
ベルリン危機 フルシチョフとケネディ
ベルリンの壁1961年8月3日
1963-1974 継続と変化

シーメンス製カラーテレビ。手前の説明には1248.-(€あるいはマルク?)と記されていた。
TVワールド カラーテレビと多様な電化製品
電気洗濯機 Mieleミーㇾ、AEGア―エーゲ―の製品。2社とも、ドイツの電気(機)メーカーで、前者の日本法人直営センターが東京にあるほか、全国に販売店があるそうだ。
洗濯機 左:Miele 中央・右:AEG
様々なラジオ
工場風景 ロボットが導入される前の工場と思われる。
働く人々、そして機械群
「1974-1989 新しい挑戦」、「1989-現代 統一、そしてグローバルな挑戦」と展示は続いていたが、4時半近くなったので、ボン中央駅を5時17分に発車する列車IC2311 に乗るため、先へ進むことを断念した。

荷物を受け取り、出口に向かうところで、Uバーンにつながる地下への階段があることに気づいた。コンコースに入る手前で見たのが、このベンツ。初代首相アデナウアーが公用車として使っていた車だそうだ。
初代首相アデナウアー用ベンツ ナンバー:O-001
ホームに下り、入線した電車に乗って、ボン中央駅へ向かった。

【余談】 1時間半余りで、見残したところが多く、とりわけ、1992年からドイツ統一まで連邦議会議事堂があったWorld Conference Centerが近くのライン川寄りにあったことが分かったが、そこまで行くことができなかった。なお、この歴史館の姉妹施設がベルリンとライプツィヒにあるそうだ。

ボン中央駅では、次の不運が待っていた。

2016年8月19日金曜日

独仏伊一人旅(6) 6月27日(金)午後 ボンでベートーベン像に会う

ケルン中央駅に戻って直ぐコンコースの列車案内板を見た。12時半すぎに出るコブレンツ行きがボンを経由することを確かめ、チケットを購入した。7.7€支払った。ホームの下には、様々なファストフード店が営業をしていた。トイレで用を足してから、マクドナルドに入り、チキンフィオレとコーラを買い、ホームに上がった。

定刻に少し遅れた入線した列車から乗り降りする人も多く、車内に空席をなんとか見つけ腰を下ろした。満席だった。チキンフィオレの味は今一つであったが、腹の足しにはなった。
コブレンツ行きローカル列車
 予定時刻より遅れたが、1時、ボン駅に到着した。北口を出て、案内所を訪ねるためポスト通りを北方向へ歩きだした。どこかに案内表示があったはずだが、見落としたようで、中央郵便局前のベートーベン広場に至った。強い日差しのもとで日陰のベンチの空きはなかったが、北側の日の当たる空いたベンチに座り、これからどうするかを思案した。
べートーベン広場と像 背後の建物は中央郵便局
ベートーベン広場の南側に「町なかの教会 聖マルティン・ミュンスター聖堂」があった。中へ入る前に東側へ回り塔の姿を見た。下を見ると、地面に大きな二つの頭部像が横たわっていた。守護聖人カシウスとフロレンティウスの頭部だそうだ。

【余談】 昨年、クラクフ(ポーランド)の中央市場で見た頭部の作者と同じかと思ったが、そのとおりかどうか。
街なかの教会 聖マルティン ミュンスター聖堂 ボン
内陣は、昼のミサも終わった後で、人の姿も少なく静かだった。 日本語のパンフレットがあり、それによると⒒世紀から13世紀にかけて建築されたと記されていた。
ミュンスター聖堂の中央祭壇
駅に戻る途中、ちょうどポスト通りに面したデパートKarstad Bonnがあった。ここならあるだろうと見当をつけて中に入り、エスカレーターで上層階へ上った。見込みとおり手洗所があり、用を足した。

駅から先ほどと同じ道を辿りながら案内所を探した。幸い、道の左側、デパートの先、中央郵便局の手前で案内表示を見つけることができた。日本語の市街観光地図を買ってから、目的の西ドイツ時代の政府、議会の跡を訪ねたいと伝えたかったが、うまくいかなかった。それでも何とか地下鉄Underground Lines(Uバーン)でボン中央駅から5駅ほどのところに展示施設Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschlandがあるらしいことがわかった。

大粒の雨が降り出し、空が曇ってきたので、急いだ。駅の地下通路を進むとUバーンのホームに通じる通路へ右折し坂道を下るよう歩いていくとホームに着いた。

案内所で入手したパンフレットとホームの路線図と見比べていると、若者が声をかけてきた。一瞬身構えたが、パンフレットを見せ、ここへ行きたいと片言の英語で言うと、驚いたことにこのホームではない、付いて来いといっているようで、不安ながら下ってきた坂道を戻り、隣のホームへ連れていってくれた。そして、電車が入ってきて乗るところまで見届けてくれた。ところが、こうした親切な若者の援助にもかかわらず、この先に不運が待っていた。


2016年8月16日火曜日

独仏伊一人旅(5) 5月27日(金)午前 ローマ・ゲルマン博物館を観る

大聖堂の正門から南側に歩を進め、隣接するローマ・ゲルマン博物館へ向かった。
大聖堂の南面 中央の屋根上に棟十字架が見える 右隅に博物館がある
【余談】 ご存知の方が多いかと思うが、私はケルンがかってローマの属州ゲルマニア・インフェリオル(下または低地ゲルマニア)の首都であったことを初めて知った。カエサルの時代、ローマの版図はライン川まで拡大した。ケルンは、ライン川の西側にあって植民都市としてローマ人の移住が定着し、発展した。

館内に入り、チケット(6€)を購入し、案内パンフレットを受け取った。最初に見たのがローマ時代の軍団Lucius Pobliciusの墓(42AD、高さ14.6m)である。この墓の前(地階)には、後で紹介するディオニソスのモザイクThe Dionysus mosaic(220-230AD)と言われるモザイクで装飾された床があった。

【余談】 第2次世界大戦中の1941年に防空壕を構築するため掘削していたとき、ローマ時代の邸宅の食堂の床にこのモザイクが発見されたという。
Lucius Pobliciusベテラン軍団の墓
フロアには、発掘されたローマ時代に遡る、様々な碑石、宝物、ガラス器、モザイクなどが展示されていた。
ローマ都市への入り口アーチ 手前の像は皇帝の肖像
ローマ渡来のガラス器
モザイク
ライン川にかかる橋の基礎杭と碑文
地階のディオニススのモザイクを見ることができた。大きさは、横7m×縦10.6m。モザイクは、多様な模様のなかに、周辺部に16枚、中央部に15枚の絵が規則正しく描かれていた。絵には一つ一つ名前が付けられているようだ。パンフレットには、Harvest wagonという名の絵が紹介されているが、この写真では上辺5枚の絵のうち左端の絵と思われる。
The Dionysus mosaic
【余談】 1999年6月19日、ケルン・サミットのワーキングディナーがこのモザイクの床のうえで開かれたそうだ。ちなみに、当時日本の首相は故小渕恵三氏であった。エリティン大統領も出席していて、ロシアに対する債務問題が主要な議題の一つであったという。

12時が近づいていたので、博物館を出てケルン中央駅へ向かった。

2016年8月7日日曜日

独仏伊一人旅(4) 5月27日(金)午前 ケルン大聖堂を観る

ケルン中央駅に着いて、階段をおりコンコースを南へ進み、大聖堂へ続く出口の方向へ歩いた。すでに9時40分を過ぎていた。
大勢の観光客の流れに沿って進んでいくと、広場があり、その南側の階段のうえ、大聖堂があった。西側(右側)に2つの塔がそそり立っていた。
ケルン大聖堂の北側
東寄り(左側)の入り口から内陣に入った。ステンドグラスを通して差し込んでくる薄い光のなかで、中央祭壇、聖三賢王の聖箱が微かに見えていた。
内陣 中央祭壇、
内陣回廊を進んでいくとに不思議な十字架が目に入った。十字架礼拝室の中に掲げられたゲロ大司教の十字架と言われるものである。
ゲロ大司教の十字架
内陣回廊の中央部に、三賢王礼拝堂(室)があった。祭壇の後ろに3つの窓があり、いずれも13世から14世紀に遡る古いステンドグラスがはめられている。中央は聖書窓(1265年、大聖堂最古、新約聖書と旧約聖書が描かれている)、左は三賢王窓、右はペテロ、マテルヌス窓(ともに1330年頃)と言われる。

左側の柱の上部に、十字架のキリストと祈る3賢王(?)の像が見えた。
三賢王礼拝堂のステンドグラス
また、中央に小ぶりな祭壇が設けられていて、3つの窓の下の壁にはそれぞれ絵が描かれていた。
三賢王礼拝堂(中央礼拝室)の祭壇
さらに進んだところで、内陣の中央祭壇に置かれた三賢王聖櫃が間近に見られた。12世紀初めケルン大司教に贈られた東方の三賢王(三博士)の遺骨を納めるために金細工師の手によって1190年から1220年にかけて制作されたという(高さ1.53m、幅1.1m、長さ2.2m)。木製で、前面は純金の板で、また、側面は金細工をした銅や金の板で作られ、さらには多数(1000個)の宝石や真珠、300個の純宝石やカメオなどで飾られているとのことである。
三賢王の聖櫃(箱)の右(南)側面
【余談】 1月6日三賢王の祭日には、格子の後ろに金の冠が置かれた3つの頭蓋を見ることができるそうだ。聖櫃は、1322年、三賢王礼拝堂に置かれた(現在地に置かれたのは1948年以降)。ケルン大聖堂は、三賢王の遺骨、聖遺物あるということから巡礼者の参拝が増え、巡礼教会となったという。

つぎに紹介するのは、聖母マリア礼拝堂(室)の市守護者の祭壇(1442年ごろ)である。元市庁舎内礼拝堂から移された(1809年)という。中央の絵は、幼いイエスの祈りを捧げ、贈り物を奉納する三権王が描かれ、左翼の絵は、処女を伴う聖ウルズラ、右翼の絵は、テーバイ兵士の殉教者を伴う聖ゲレオンを示しているという。
聖母マリア礼拝堂(室) 市守護者の祭壇
西側(正面)の入り口から出たところは広場になっていた。その端まで行って振り返ると、北塔と南塔の全体を仰ぎ見ることができた。
西から見た外観 左:北塔 右:南塔
3枚の扉、なかでも中央の扉の上部には、真ん中のイエスを抱くマリアの像を始め左右に多数の聖人像が飾られていて、印象的だった。
西側の入り口
 【注記】本稿では、以下の冊子及びパンフレットを参照し、引用した。
1.ケルン大聖堂 宝庫を含む写真案内書(日本語、B.ショック ヴェルナー、Rahmel-Verlag GmbH)
2.ようこそ ケルン大聖堂へ(日本語、DOMFORUM Treffpunkt Information Kirche、August 2013)