2016年8月26日金曜日

独仏伊一人旅(7) 5月27日(金)午後 ボンでにわか雨に遭う

4つ目の停留所に着いたとき、その名前König MuseumのMuseumに引かれて下りてしまった。階段を上り、地上出口への通路を歩いていると大きな雷鳴が聞こえてきた。近くで落雷が続いているようだった。地上に出る階段の前で外を見上げると、土砂降りの真っただ中であった。

通路に戻り、周辺施設の案内板を見ると、目的の展示施設の名が見当たらなかった。その時、下りる停留所を間違えたことに気が付いた。言われた通り5つ目まで行くべきだった。ホームに下り、電車を待った。

1停留所分だけ乗り、Meussallee/Museumsmeile停留所で下りた。階段を上り通路を歩いて地上出口への階段前へ来たが、雨は止んでいなかった。しばらくして小雨nahahe になったので、階段を上り地上へ出た。前方(西方向)に、目的のドイツ連邦共和国歴史館Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland(日本語訳は筆者)らしい建物が見えてきた。

中へ入り、雨に濡れたバッグを拭き、クロークに預けた。パンフレット(展示ガイド、Our History.Germany since1945英語版、日本語版はなし。)を手にして、見学ルートに沿って歩き始めた。1945年から現代までを「1945-1949、1949-1955、1955-1963、1963-1974、1974-1989、1989-現代」に区分して様々な現物や写真が展示されていた。

1945-1949 過去の重荷 ドイツの分断
Liberation開放の象徴?
Occupation占領の象徴?
1949-1955 東西ドイツにおける建設と再建
Parliamentary Democracy議会制民主政
次の写真でもう少しゆっくり見て来たら良かったと思うことがある。背景の建物と右下の写真は分かったけれど、他のいくつかの写真や展示物は何を示しているのか皆目分からなかった。中でも、中央下部に取りつけられたケースのなかにピストルが置かれていたのには驚ろかされた。
建物:迎賓館ペータースベルグ 右下:初代首相アデナウアー
【余談】 建物は、1949-1955年の間、連合国高等弁務官府として使われていたという。現在は、シュタインベルガ―グランドホテルとして一般の人も宿泊できるようだ。
Communist Party Rule共産党ルール (戦車は前半分だけ)
1955-1963 冷戦と深まる分断
ベルリン危機 フルシチョフとケネディ
ベルリンの壁1961年8月3日
1963-1974 継続と変化

シーメンス製カラーテレビ。手前の説明には1248.-(€あるいはマルク?)と記されていた。
TVワールド カラーテレビと多様な電化製品
電気洗濯機 Mieleミーㇾ、AEGア―エーゲ―の製品。2社とも、ドイツの電気(機)メーカーで、前者の日本法人直営センターが東京にあるほか、全国に販売店があるそうだ。
洗濯機 左:Miele 中央・右:AEG
様々なラジオ
工場風景 ロボットが導入される前の工場と思われる。
働く人々、そして機械群
「1974-1989 新しい挑戦」、「1989-現代 統一、そしてグローバルな挑戦」と展示は続いていたが、4時半近くなったので、ボン中央駅を5時17分に発車する列車IC2311 に乗るため、先へ進むことを断念した。

荷物を受け取り、出口に向かうところで、Uバーンにつながる地下への階段があることに気づいた。コンコースに入る手前で見たのが、このベンツ。初代首相アデナウアーが公用車として使っていた車だそうだ。
初代首相アデナウアー用ベンツ ナンバー:O-001
ホームに下り、入線した電車に乗って、ボン中央駅へ向かった。

【余談】 1時間半余りで、見残したところが多く、とりわけ、1992年からドイツ統一まで連邦議会議事堂があったWorld Conference Centerが近くのライン川寄りにあったことが分かったが、そこまで行くことができなかった。なお、この歴史館の姉妹施設がベルリンとライプツィヒにあるそうだ。

ボン中央駅では、次の不運が待っていた。

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