2018年12月22日土曜日

中国一人旅その1(19) 6月10日(土)午前 宛平城から中国人民抗日戦争記念館へ

盧溝橋を後に、宛平城へ向かった。威厳門(もと永昌門)を通り抜け進んだ。
城壁に取り付けられた案内版には「華北地域で完璧に保存された唯一の両門衛城です。明明王朝は国都を守り、李自成の進撃を防ぐため、宦官武俊に命令を下し、紀元1638年から1640年に掛けて、この城を築き、拱極城と名付きました。1928年12月、宛平城役所は城内に移ってから、宛平城と称しました。城には両門があり、東は順治門、西は永昌門(清代から威厳門と改称)、長さは640m、幅は320m、敷地面積は約20ヘクタールあります。」と記されていた。城壁には盧溝橋事件の時の日本軍による弾痕が残っているそうだ。
宛平城威厳門(清代以前は永昌門)
威厳門を通り抜け東へ進むと、中国人民抗日戦争記念館の前に至った。中へ入ると、児童や生徒と思われる子どもが親に連れられて見学に来ていた。中国史、特に柳条湖事件以来の歴史を学ぶ教育施設の役割を持っているのだろう。別館で台湾における抗日の戦いを展示していたが、台湾からの見学者を意識してのことかと思われた。
記念館入口
記念館の平面図(左:本館。右:別館)
入口ホールで迎えてくれたのは、抗日戦争の英雄像であった。武器を携える兵士を中心に様々の人民の群像が前方を凝視していた。
抗日戦争の英雄像
永定河の流れ

まず次の宛平城とその周辺の航空写真(撮影時期は記されていなかったと思う)に見える永定河の流れが現在と異なることだ。橋を渡りながら、永定河は流れているように見えず、どこかに堰があって止まっているように思われた。
次に、中央に見える盧溝橋と左(北)側の鉄道橋はいずれも永定河の中州を横切っていた。現在の地図には中州はない。現地で橋を西へ渡ったが、その先にさらに橋があるようには見えなかった。
中央:宛平城 手前:永定河
戦闘場面のジオラマ

両軍の戦闘はどのように起こり展開したか、ジオラマはある時点の情景を描いたものに違いなく、興味深く見た。鉄道線路を挟んでの白兵戦で、日本軍が中国軍の攻撃に対し防戦しているように見える。武器は両軍とも銃剣であるが、抜刀した刀が異なっている。
左(東)がわ:宛平城 中央:日本軍と中国軍との戦闘 右(西)側 盧溝橋
1937.7.7記念地の銘板

銘板が設置されたところが、記念地とされていた。盧溝橋事件が発端となって全面戦争に拡大し、1945年8月、日本のポツダム宣言受諾=無条件降伏まで続いた。この戦争を8年争と言っているが、1932年6月の柳条湖事件を起点とみると14年戦争とも言える。

昼過ぎ記念館を出て、中華料理店を探しながら歩いていると、「鄔智雅娜 素食茶餐庁」と記した看板の店の前に「素食28元」と手書きの立て看板に引かれて中へ入った。
素食料理店
【余談】「鄔智雅娜」 第1字「鄔」はウ、小さなとりで。第2字「智」はチ、賢い。「智」。第3字「雅」はガ、みやび。第4字「娜」ナ、日本では、例えば「婀娜っぽい」という風に。意味ありげな、味な4文字。

28元の素食、肉を使わず、野菜が中心という。2回ほどお代わりをしたら満腹になった。厨房が見え、5,6人が忙しそうに働いていた。
素食
 順治門を出て、南へバス停に向かった。
東の順治門
地下鉄9号線七里庄駅を通るバスに乗ることができたが、降りる所を間違えたため次のバスを待つ時間が余計にかかった。何とか七里庄駅にたどりつき、地下鉄9号線に乗った。

2018年11月29日木曜日

中国一人旅その1(18) 6月10日(土)午前 日支事変、盧溝橋を渡る

今回、北京を訪問した目的の一つが盧溝橋事件(七七事変、日中戦争の発端となったところを訪ねることであった。

ホテルを出て、西単駅に向かった。地下鉄1号線で軍事博物館まで行き、9号線に乗り換え、七里荘駅で下車し地上にでた。ここまでは出発前に調べて来たが、ここから先は、地図アプリでタクシーに乗ろうとした。ところが、なかなかタクシーを捕まえることができなかった。10分余り経ってようやく捕まえ乗り込んだ。「盧溝橋」を目指し走り始めてからあまり時間がたたないうちに宛平城門前に着いた。城門を背に西へ進むと盧溝橋だ。
盧溝橋東橋詰
盧溝橋(欧州では、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくることからマルコ・ポーロ橋というそうだ)は、北京の西南15㎞に位置し、永定河(かって、盧溝河といった。)に架かる石造りのアーチ橋である。東から西へ往復したが、石を敷き詰めたところはやや歩きづらかった。
金の時代1189年架橋工事が始まり1192年に完成したという。全長(東西)266.5m、広さ(幅)9.3m、橋脚は10本でアーチが11個ある。欄干には獅子の石刻(501個)が乗せられている。

盧溝橋事件(中国では七七事変)は1937年7月7日、日本軍(支那駐屯軍、司令官代行橋本群)と中国軍(冀察政務委員会第29軍、軍長宋鉄元)の衝突事件であった。事件は現地で4日で休戦しそうだが、日本軍の増派から日中戦争(支那事変、1945年日本軍の降伏まで8年間)の発端になったという。
盧溝橋を背に自撮り
【余談】盧溝橋事件に関して言えば、日本兵の増派を決定した時の近衛首相(1937年6月4日就任)の情勢判断の誤りは否めない。この後、近衛首相は日中間の事変解決・和平に取り組むが、所期の目的を達することなく1939年1月5日に辞任した。

2018年11月21日水曜日

中国一人旅その1(17) 6月9日(金)午後 瀋陽から北京へ

ホテルに戻ってから急いで荷物を受け取り、地下鉄で瀋陽北駅から瀋陽駅へ移動した。高速鉄道の乗車口は人だかりができていて、押し合い状態だったが、そうしたなかで少しずつ動き、エスカレーターで2階コンコースに出た。
両側に改札口があり、その上に列車の案内板が取り付けてあった。列車番号と出発時刻でホーム番号を確認してから、ファストフード店でホットドッグのようなパンを買い、ベンチに腰掛けて食べた。
瀋陽駅コンコース
 発車時刻の30分ほど前だったと思うが、改札が始まった。列に並んで改札口を通り抜け、4-5番ホームへエスカレータで降り、広々としたホームを歩き、最後部の8両目に向かった。
4-5番ホーム
和諧号220号北京南駅行き8号車の入り口には、若い女性の客室乗務員が立っていた(失礼とは思いながら後から撮影)。ホームはシンプルで清潔だった。
5番ホーム 北京南駅行き13:30発・和諧号220号・8号車(最後尾)
10席ほどの特等座席に2,3人が乗っていたが、途中乗り降りがあり、終着駅まで乗っていたのは僕だけだった。列車は農村地帯を走り抜け、北京南駅にはほぼ定刻の17:28に到着した(乗車時間は3時間58分)。

地下鉄に乗り換えようと、案内表示に従って歩いたが、折から退勤時間で人の流れが非常に多かった。なんとか目指す4号線ホームにたどり着き乗車、宣武門駅で下車したのち、西単方向に向かって10分ほど歩きホテルに至った。
ホテル内の中華料理店で夕食をとり、部屋に戻って翌日の予定を確認したのち身のまわりを整理し休んだ。

2018年11月19日月曜日

中国一人旅その1(16) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(3)方城、宝頂、地宮

隆恩門を通り抜け入ったところが方城であった。1644年(順治元年)に建立された。城高6.15m、南北146m、東西120m、方城と呼ばれる所以か。ここで、祭祀が行われたそうだ。
隆恩殿、二柱門と石祭大、月牙城が神道に沿って一直線に並んで建てられ、さらに月牙城の上には大明楼が建ち、地中には地宮が配置されているという。

隆恩門をくぐって直ぐの東西に配楼、その先に配殿が建てられていた。
方城の中央:陵恩殿 右:東配殿 左:西配殿
東配殿
東配殿
西配殿

ここも改修工事中で中を見ることはできなかった。入口脇の案内版によれば、清王朝初期に建てられ、ここでラマ教の僧侶が死者の命日に魂を救うために読経したという(清汪朝ではチベット仏教が広く信仰されていたらしい)。
西配殿
西配殿と陵恩殿の間、通路脇に焚帛亭と呼ばれる大きな石灯篭があった。中には祭祀の際に使われる松明を燃やす円形の火池が作られていた。
焚帛亭
隆恩殿(またの名、享殿)は、1643年(崇徳8年)に建設が始まり1650年(順治7年)に完成し、名称が定まったという。
隆恩殿
隆恩殿の内部はホンタイジとその妃の祭祀の場所であったというが、白く埃っぽい感じがして宗教的儀礼の場という雰囲気ではなかった。とは言え、祭壇(または厨子?)の前に5つの陶器(中央:香炉、左右:華瓶、燭台)が並べられ、これらは次の石祭台に置かれている5つの石彫と同じような意味をもつ、仏教でいわれる三具足と思われた。
隆恩殿内部、主要な祭祀の場所
次に、二柱門と石祭台(またの名前、沖天碑楼、照碑)は、隆恩殿の裏(北)側、月牙城との間に据えられていた。二柱門は改修工事のためよく見られなかったが、石祭台には5つの石彫(中央が香炉”海山”、その両側は有香瓶、両端は燭台)が置かれていた。
手前:石祭台 奥:二柱門
方城の歩道から見ると、隆恩殿(左・南側)、二柱門と石祭台(中央)、明楼(右・北側)が南北の並んでいることがわかる。
左:隆恩殿、中央:二柱門と石祭台、右:月牙城・明楼
角楼は方城の四隅に建てられていて、屋根の形が変わっている。中心にガラスで輝くような大きな瓶が取り付けられ、廂の先には風鈴がぶら下がっていた。兵士が上って周囲を監視していたそうだ。
東北隅の角楼
月牙城は、方城の壁(右(南)側)と宝城(左(北)側)に囲まれた新月の形をした特殊空間で、方城との間を上下する階段が設置されている。方城の通路を抜けた先、左側の宝城の壁に地宮への入り口、昭壁があった。城高約6m、周囲96mという。
月牙城と昭壁 
 宝頂は、白灰、砂子、黄土(三合土という)を用いて盛り上げられているという。高さ7m、周長は110mで、中央に楡の木が植えられていた。この下にホンタイジとその妃の骨灰を祭る地宮が設置されているという。
中央の饅頭:宝頂 右下:昭壁
 方城の見学を終え、出口を出ると3人の女性が踊りを披露している最中だった。
北陵公園前の広場で踊る3人の女性
北陵公園の前、南側には広い北陵大街が走っていた。これと交わる東西の道は泰山路という。
北陵太街
泰山路を右(西)へ地下鉄北陵公園駅へ向かった。

2018年11月3日土曜日

中国一人旅その1(15) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(2)大碑楼、隆恩殿、方城

正紅門の君門から中へ入ると、神道が北に向かって真っすぐに伸びていた。その先に大きな大碑楼があった。

大碑楼 神功
大碑楼の中に、「清昭陵神功聖徳碑」と呼ばれる巨大な石碑(50屯)が建てられていた。乾隆27年(1688年)のことで、ホンタイジの一生、文治武功が書き記されているそうだ(1810字)。
大碑(下部)
天井を見上げると見事な模様が描かれていた。
大碑(上部)天井
床は4隅が木の柵で囲まれ、四隅に龍の浮彫が置かれていた。これはどういう意味を持っているのだろうか。
大碑(足元、東南角)
さらに北へ進むと隆恩門が聳えていた。方城の正門に当たり、建立は1644年(順治元年)、城高6.15m、南北146m、東西120mという。
隆恩門正面(南側)
門の閂が通路の脇に、箸置きならぬ閂置きに寝かされていた。
閂(かんぬき)
門扉と閂の穴から閂は相当太いこと、方城内への守りは硬かったと思われる。
閂扉と閂の穴

2018年10月21日日曜日

中国一人旅その1(14) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(1)

清王朝は1616年後金に始まり1911年辛亥革命の後1912年に滅亡する征服王朝とされる。都は最初盛京(今日の瀋陽、1616~1644年)に置かれ、ついで北京(1944~1912年)に遷都した。皇帝は、初代太祖ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤。アイシンギョロ・ヌルハチと読むそうだ)、2代太宗ホンタイジ(愛新覚羅・皇太極)、最後は第12代フギ(愛新覚羅・溥儀、宣統帝、後に満州国皇帝となる)である。瀋陽には、初代ヌルハチと第2代ホンタイジの陵墓がある。前者は福陵(東陵公園内)、後者は昭陵(北陵公園内)として保存され、ともに世界遺産に登録されている。

この日の午後1時半初の和諧号で北京へ移動する予定であったため、見学時間や移動時間を考慮して地下鉄で行けるホンタイジの昭陵を見学することにした。

朝食後地下鉄2号線瀋陽北駅から北陵公園に向かった。北陵公園駅に着き地上に出て少し歩くと公園の正門に至り、入場券を買って入った(6元)。
北陵公園正門
正門から昭陵まで南北に広い歩道が続いていた。途中に、ホンタイジの立像が建てられていた。曇天のため、写真では人物像がよく見えないのが残念だ。
ホンタイジ(皇太極)像
さらに進むと、両側に2本の石柱や獅子をはじめ10体余りの石獣(動物像)が据え付けられていた。

石柱
石柱
石柱
哺乳石獅
哺乳石獅(1)
哺乳石獅子(2)
中央の通り「神道」を歩いて、「神橋」を渡った。
神橋
さらに進むと碑楼(石碑坊)があった。
碑楼(石碑坊)
紅門と呼ばれる昭陵の入り口に辿り着いた。ここで、昭陵の入場券(陵寝半价票25元)を買い、右(東)側の「君門」から入った。
正紅門(1)
正紅門は最初1649年(順治6年)に建設されたという。中央が「神門」、左(西)側が「臣門」と呼ばれるそうだ。案内版によれば、昭陵は長方形の赤い壁で囲まれ、南面の正紅門のほか、東に東紅門、西に西紅門がある。
正紅門(2)
(つづく)



2018年10月10日水曜日

中国一人旅その1(13) 6月8日(木)午後 張氏師府・東院 大青楼、小青楼、花壇

中院から東院に移って、岩山に見立てた假山の通路の上部に「天理人心」(張作霖書)と彫られた額が掛かっていた。大青楼はその先にあった。
山の通録上「天理人心」(南側)
【余談】大青楼は、灰色の石材からこの名前が当てられたという。1922年、張作霖が爆殺される6年前(1928年6月4日、皇姑屯事件、日本では満州某大事件という)に完成した。内部には、張作霖と張学良の執務室と私的な居住空間が作られていた。地下1階、地上2階の建物である。
大青楼の正面
1階には、張作霖の執務室をはじめ、東北政務委員会室、老虎庁などの部屋があった。
張作霖の執務室 手前はアイスボックス
老虎庁と言われる客室は小青楼で3つ目の客室で、1929年1月10日、この部屋で張学良が張作霖の知恵袋と言われた楊宇霆と黒竜江省省長の常蔭槐を「新政阻害、統一破壊」の罪で処刑した「楊常事件」が起きたことからよく知られるようになったそうだ。
老虎庁
2階は、張学良が使用していた執務室のほか家族との生活が営まれた部屋があった。
張学良の執務室
再び假山の通路をくぐり、花壇に出た。通路の上には、「慎行」と書かれた額が取り付けられていた。
山の通録上「慎行」(北側)
花壇と岩山、東屋
最後に見学したのが小青楼である。張作霖は、皇姑屯事件のため重体となり、ここの会客庁(客室、右の白いカーテンの奥)に運ばれ、死去したという。
小青楼の客室
【余談】小青楼は、1918年張作霖が第5夫人のために建てたもので、1階には娘たちが住んでいたそうだ.

張作霖は張氏師府の小青楼を建ててから10年、皇姑屯事件のため53歳で亡くなった。その後を張学良が継いだが、戦後国共内戦を経て国民党が共産党に追われ台湾に逃れたことから、一緒に移つされた。1991年、ハワイに移り100歳まで生存した。親子の半生は波乱に満ちていたといえ、日本の軍人や政治家が彼らの人生に関わっていたことは間違いないようだ。

バスに乗りホテルに戻ってから少し休み、8時過ぎにホテルのレストランで夕食を食べた。翌日の予定を確かめてから眠った。