2019年1月31日木曜日

中国一人旅その1(21) 6月10日(土)夕刻 建国門から王府井まで歩く

建国門駅で下り、地上に出て、ホテルニューオオタニ長富宮飯店に向かった。道を間違えたかなと思いながら、何とかホテルに着き、受付で、京劇を公演している梨園劇場の入場券を購入したいと告げると、梨園劇場はこのホテルとは別の前門建国飯店にあるとのことで、明日11日(日)の公演を予約した。

長富宮飯店を出たところ、外はまだ明るいので王府井まで歩くことにした。天安門前に至る大通り、ここら辺は建国門内大街と言うようだが、建国門北大街と交差する建国門橋で北側を見ると、乗用車やバスが猛スピードで通過していた。
建国門橋
進むと、ビルの入り口の「中国社会科学院」という表示板が目に入った。ここは、中国国務院直属の組織で、中国政府のシンクタン(イデオローグ?)といわれ、1977年5月、中国科学院の哲学社会科学学部をもとに新設されたという。
中国社会科学院
大通りの南側にちょっと風変わりなビルがあった。中国海関総署のビルだった。この役所は国務院に属し、物品の輸出入の管理及び関税事務を所管するというから、目下の関税問題の司令塔を努めているのだろうか?
中国海関総署
続いて、右手(北側)に「長安大戯院」の看板が見えた。建物の前には、京劇俳優の面に描かれた隈取りを象ったものが据えられていた。入口に向かう人の姿が見られ、アッと思った。先ほど、京劇のチケットを買って来たばかりだったことや出発前に調べた時はこの劇場の京劇の公演予定が見つからなかったからだ。
長安大戯院
ようやく王府井に着いた。10数年前に一度着たことがあり、その折の記憶を頼りに、お茶の店を探した。店の構えは少々小さくなったように見えたが、同じ店名の扁額を見つけた。その店で、鉄観音茶とプーアル(普洱)茶を買った。
王府井入り口
いささか歩き疲れたので、地下鉄に乗り、2駅目の西単駅で下り、ホテルに戻った。夕食は、近くの食堂で食べたが、この店は結構賑わっていて騒々しいくらいだった。
明日は、午前は人民大会堂から国家博物館へ、午後はもう一度天壇へ、夜は京劇を見る予定だ。



2019年1月21日月曜日

中国一人旅その1(20) 6月10日(土)夕刻 天壇公園と壇廟建物群

ホテルに戻り一休みしてから天壇へ見学に行くつもりだった。ところが目が覚めたのは4時が近かった。急いで宣武門駅のバス停に向かった。天壇公園の西門を通るバスを探して乗ったところ結構時間がかかり、着いたのは5時を回っていた。見どころが見られない公園のみの入場料15元(高齢者優待なし)を支払い、西門から入った。
西門(天壇公園の入り口)
導遊図(案内図)の左側に中文と英(米)文、右側は上から日本語、韓国語、ロシア語で、天壇の由来、建物、樹木、石などの見どころが簡単に説明されていた。
案内図
【余談】天壇は明・清の皇帝が天を祀り豊穣を祈った祭祀のための壇廟建築群である。明の永楽18年(1420年)に建築が始まった。現存の建物の大部分は清代の建築物だが、配置は明の嘉靖帝時代のままという。面積は273万㎡(東京ドーム58個に相当)。
西天門
【余談】天門は、東西南北に4つある。南北の天門は、広い通路が走り、その上に、南から北へ、円丘、皇窮宇、成貞門、祈年殿が建てられている。途中、東西の通路と交差するところが丹陛橋である。

西天門を通リ抜けると、右手(南方向)に建物が見えたので、そちらへ向かった。
東西の天門を貫く通路
堀があり、それに沿って進むと、斎宮の正面入り口に至った。
斎宮前の空堀(水)北側
斎宮の入り口に近づくため、堀に架かる橋を渡らなければならないが、すでに閉門されていたので、樹々が茂る中を進んだ。
斎宮の正面入り口(東向き)
三座門を通リ抜けさらに進み、九龍柏の方へ左(東方向)へ曲がり歩いた。
三座門
人の声が騒がしく聞こえてきたところで、この木に出会った。樹齢500年を越すという。木肌に九匹の龍が絡みついているように見えることからで、この名が付けられたそうだ。
九龍柏
天壇の壇廟建築物群のうち、南北軸に建てられた建築物2棟の一つが皇窮宇である。その周りの塀が回音壁と呼ばれている。この南側に円丘壇があるが、そこは見ないで、その北門、成貞門(皇窮宇を取り囲む4つの門の一つ)を通り抜け北へ向かった。
皇窮宇(中央)と回音壁(周囲の壁)
通路は結構長く、祈念殿にたどり着いたものの、中へは入れず、花甲門をくぐり、回り道をして、丹陛橋の下を通り抜け、七星石が置かれたところに来た。
祈年殿 中央は、漢白玉
祈年殿入り口
花甲門
七星石は、明の嘉靖帝(第12代、在位1521-1567年)の時代に、天壇の東南に置かれたという。実際の石は8個で、それは清の乾隆帝の世に、清の満族が中華の一員であることを証するために新たに置かれた。
七星石
この後、長廊(72軒廊とも)を渡り、東門を出た。地下鉄に乗り、東単経由で建国門駅に向かった。




2018年12月22日土曜日

中国一人旅その1(19) 6月10日(土)午前 宛平城から中国人民抗日戦争記念館へ

盧溝橋を後に、宛平城へ向かった。威厳門(もと永昌門)を通り抜け進んだ。
城壁に取り付けられた案内版には「華北地域で完璧に保存された唯一の両門衛城です。明明王朝は国都を守り、李自成の進撃を防ぐため、宦官武俊に命令を下し、紀元1638年から1640年に掛けて、この城を築き、拱極城と名付きました。1928年12月、宛平城役所は城内に移ってから、宛平城と称しました。城には両門があり、東は順治門、西は永昌門(清代から威厳門と改称)、長さは640m、幅は320m、敷地面積は約20ヘクタールあります。」と記されていた。城壁には盧溝橋事件の時の日本軍による弾痕が残っているそうだ。
宛平城威厳門(清代以前は永昌門)
威厳門を通り抜け東へ進むと、中国人民抗日戦争記念館の前に至った。中へ入ると、児童や生徒と思われる子どもが親に連れられて見学に来ていた。中国史、特に柳条湖事件以来の歴史を学ぶ教育施設の役割を持っているのだろう。別館で台湾における抗日の戦いを展示していたが、台湾からの見学者を意識してのことかと思われた。
記念館入口
記念館の平面図(左:本館。右:別館)
入口ホールで迎えてくれたのは、抗日戦争の英雄像であった。武器を携える兵士を中心に様々の人民の群像が前方を凝視していた。
抗日戦争の英雄像
永定河の流れ

まず次の宛平城とその周辺の航空写真(撮影時期は記されていなかったと思う)に見える永定河の流れが現在と異なることだ。橋を渡りながら、永定河は流れているように見えず、どこかに堰があって止まっているように思われた。
次に、中央に見える盧溝橋と左(北)側の鉄道橋はいずれも永定河の中州を横切っていた。現在の地図には中州はない。現地で橋を西へ渡ったが、その先にさらに橋があるようには見えなかった。
中央:宛平城 手前:永定河
戦闘場面のジオラマ

両軍の戦闘はどのように起こり展開したか、ジオラマはある時点の情景を描いたものに違いなく、興味深く見た。鉄道線路を挟んでの白兵戦で、日本軍が中国軍の攻撃に対し防戦しているように見える。武器は両軍とも銃剣であるが、抜刀した刀が異なっている。
左(東)がわ:宛平城 中央:日本軍と中国軍との戦闘 右(西)側 盧溝橋
1937.7.7記念地の銘板

銘板が設置されたところが、記念地とされていた。盧溝橋事件が発端となって全面戦争に拡大し、1945年8月、日本のポツダム宣言受諾=無条件降伏まで続いた。この戦争を8年戦争と言っているが、1932年6月の柳条湖事件を起点とみると14年戦争とも言える。

昼過ぎ記念館を出て、中華料理店を探しながら歩いていると、「鄔智雅娜 素食茶餐庁」と記した看板の店の前に「素食28元」と手書きの立て看板に引かれて中へ入った。
素食料理店
【余談】「鄔智雅娜」 第1字「鄔」はウ、小さなとりで。第2字「智」はチ、賢い。「智」。第3字「雅」はガ、みやび。第4字「娜」ナ、日本では、例えば「婀娜っぽい」という風に。意味ありげな、味な4文字。

28元の素食、肉を使わず、野菜が中心という。2回ほどお代わりをしたら満腹になった。厨房が見え、5,6人が忙しそうに働いていた。
素食
 順治門を出て、南へバス停に向かった。
東の順治門
地下鉄9号線七里庄駅を通るバスに乗ることができたが、降りる所を間違えたため次のバスを待つ時間が余計にかかった。何とか七里庄駅にたどりつき、地下鉄9号線に乗った。

2018年11月29日木曜日

中国一人旅その1(18) 6月10日(土)午前 日支事変、盧溝橋を渡る

今回、北京を訪問した目的の一つが盧溝橋事件(七七事変、日中戦争の発端となったところを訪ねることであった。

ホテルを出て、西単駅に向かった。地下鉄1号線で軍事博物館まで行き、9号線に乗り換え、七里荘駅で下車し地上にでた。ここまでは出発前に調べて来たが、ここから先は、地図アプリでタクシーに乗ろうとした。ところが、なかなかタクシーを捕まえることができなかった。10分余り経ってようやく捕まえ乗り込んだ。「盧溝橋」を目指し走り始めてからあまり時間がたたないうちに宛平城門前に着いた。城門を背に西へ進むと盧溝橋だ。
盧溝橋東橋詰
盧溝橋(欧州では、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくることからマルコ・ポーロ橋というそうだ)は、北京の西南15㎞に位置し、永定河(かって、盧溝河といった。)に架かる石造りのアーチ橋である。東から西へ往復したが、石を敷き詰めたところはやや歩きづらかった。
金の時代1189年架橋工事が始まり1192年に完成したという。全長(東西)266.5m、広さ(幅)9.3m、橋脚は10本でアーチが11個ある。欄干には獅子の石刻(501個)が乗せられている。

盧溝橋事件(中国では七七事変)は1937年7月7日、日本軍(支那駐屯軍、司令官代行橋本群)と中国軍(冀察政務委員会第29軍、軍長宋鉄元)の衝突事件であった。事件は現地で4日で休戦しそうだが、日本軍の増派から日中戦争(支那事変、1945年日本軍の降伏まで8年間)の発端になったという。
盧溝橋を背に自撮り
【余談】盧溝橋事件に関して言えば、日本兵の増派を決定した時の近衛首相(1937年6月4日就任)の情勢判断の誤りは否めない。この後、近衛首相は日中間の事変解決・和平に取り組むが、所期の目的を達することなく1939年1月5日に辞任した。

2018年11月21日水曜日

中国一人旅その1(17) 6月9日(金)午後 瀋陽から北京へ

ホテルに戻ってから急いで荷物を受け取り、地下鉄で瀋陽北駅から瀋陽駅へ移動した。高速鉄道の乗車口は人だかりができていて、押し合い状態だったが、そうしたなかで少しずつ動き、エスカレーターで2階コンコースに出た。
両側に改札口があり、その上に列車の案内板が取り付けてあった。列車番号と出発時刻でホーム番号を確認してから、ファストフード店でホットドッグのようなパンを買い、ベンチに腰掛けて食べた。
瀋陽駅コンコース
 発車時刻の30分ほど前だったと思うが、改札が始まった。列に並んで改札口を通り抜け、4-5番ホームへエスカレータで降り、広々としたホームを歩き、最後部の8両目に向かった。
4-5番ホーム
和諧号220号北京南駅行き8号車の入り口には、若い女性の客室乗務員が立っていた(失礼とは思いながら後から撮影)。ホームはシンプルで清潔だった。
5番ホーム 北京南駅行き13:30発・和諧号220号・8号車(最後尾)
10席ほどの特等座席に2,3人が乗っていたが、途中乗り降りがあり、終着駅まで乗っていたのは僕だけだった。列車は農村地帯を走り抜け、北京南駅にはほぼ定刻の17:28に到着した(乗車時間は3時間58分)。

地下鉄に乗り換えようと、案内表示に従って歩いたが、折から退勤時間で人の流れが非常に多かった。なんとか目指す4号線ホームにたどり着き乗車、宣武門駅で下車したのち、西単方向に向かって10分ほど歩きホテルに至った。
ホテル内の中華料理店で夕食をとり、部屋に戻って翌日の予定を確認したのち身のまわりを整理し休んだ。

2018年11月19日月曜日

中国一人旅その1(16) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(3)方城、宝頂、地宮

隆恩門を通り抜け入ったところが方城であった。1644年(順治元年)に建立された。城高6.15m、南北146m、東西120m、方城と呼ばれる所以か。ここで、祭祀が行われたそうだ。
隆恩殿、二柱門と石祭大、月牙城が神道に沿って一直線に並んで建てられ、さらに月牙城の上には大明楼が建ち、地中には地宮が配置されているという。

隆恩門をくぐって直ぐの東西に配楼、その先に配殿が建てられていた。
方城の中央:陵恩殿 右:東配殿 左:西配殿
東配殿
東配殿
西配殿

ここも改修工事中で中を見ることはできなかった。入口脇の案内版によれば、清王朝初期に建てられ、ここでラマ教の僧侶が死者の命日に魂を救うために読経したという(清汪朝ではチベット仏教が広く信仰されていたらしい)。
西配殿
西配殿と陵恩殿の間、通路脇に焚帛亭と呼ばれる大きな石灯篭があった。中には祭祀の際に使われる松明を燃やす円形の火池が作られていた。
焚帛亭
隆恩殿(またの名、享殿)は、1643年(崇徳8年)に建設が始まり1650年(順治7年)に完成し、名称が定まったという。
隆恩殿
隆恩殿の内部はホンタイジとその妃の祭祀の場所であったというが、白く埃っぽい感じがして宗教的儀礼の場という雰囲気ではなかった。とは言え、祭壇(または厨子?)の前に5つの陶器(中央:香炉、左右:華瓶、燭台)が並べられ、これらは次の石祭台に置かれている5つの石彫と同じような意味をもつ、仏教でいわれる三具足と思われた。
隆恩殿内部、主要な祭祀の場所
次に、二柱門と石祭台(またの名前、沖天碑楼、照碑)は、隆恩殿の裏(北)側、月牙城との間に据えられていた。二柱門は改修工事のためよく見られなかったが、石祭台には5つの石彫(中央が香炉”海山”、その両側は有香瓶、両端は燭台)が置かれていた。
手前:石祭台 奥:二柱門
方城の歩道から見ると、隆恩殿(左・南側)、二柱門と石祭台(中央)、明楼(右・北側)が南北の並んでいることがわかる。
左:隆恩殿、中央:二柱門と石祭台、右:月牙城・明楼
角楼は方城の四隅に建てられていて、屋根の形が変わっている。中心にガラスで輝くような大きな瓶が取り付けられ、廂の先には風鈴がぶら下がっていた。兵士が上って周囲を監視していたそうだ。
東北隅の角楼
月牙城は、方城の壁(右(南)側)と宝城(左(北)側)に囲まれた新月の形をした特殊空間で、方城との間を上下する階段が設置されている。方城の通路を抜けた先、左側の宝城の壁に地宮への入り口、昭壁があった。城高約6m、周囲96mという。
月牙城と昭壁 
 宝頂は、白灰、砂子、黄土(三合土という)を用いて盛り上げられているという。高さ7m、周長は110mで、中央に楡の木が植えられていた。この下にホンタイジとその妃の骨灰を祭る地宮が設置されているという。
中央の饅頭:宝頂 右下:昭壁
 方城の見学を終え、出口を出ると3人の女性が踊りを披露している最中だった。
北陵公園前の広場で踊る3人の女性
北陵公園の前、南側には広い北陵大街が走っていた。これと交わる東西の道は泰山路という。
北陵太街
泰山路を右(西)へ地下鉄北陵公園駅へ向かった。

2018年11月3日土曜日

中国一人旅その1(15) 6月9日(金)午前 清昭陵を見学(2)大碑楼、隆恩殿、方城

正紅門の君門から中へ入ると、神道が北に向かって真っすぐに伸びていた。その先に大きな大碑楼があった。

大碑楼 神功
大碑楼の中に、「清昭陵神功聖徳碑」と呼ばれる巨大な石碑(50屯)が建てられていた。乾隆27年(1688年)のことで、ホンタイジの一生、文治武功が書き記されているそうだ(1810字)。
大碑(下部)
天井を見上げると見事な模様が描かれていた。
大碑(上部)天井
床は4隅が木の柵で囲まれ、四隅に龍の浮彫が置かれていた。これはどういう意味を持っているのだろうか。
大碑(足元、東南角)
さらに北へ進むと隆恩門が聳えていた。方城の正門に当たり、建立は1644年(順治元年)、城高6.15m、南北146m、東西120mという。
隆恩門正面(南側)
門の閂が通路の脇に、箸置きならぬ閂置きに寝かされていた。
閂(かんぬき)
門扉と閂の穴から閂は相当太いこと、方城内への守りは硬かったと思われる。
閂扉と閂の穴