バスに戻り、昼食用に買ってきたローストチキンを挟んだパンを取り出し、食べ始めました。照り付ける強い日差しにバスの屋根が焼けたようで、室内は暑く、温室の中のようでした。
1時過ぎ、バスはビルケナウに向かって出発し、ほどなく目的地に着きました。駐車場から小麦畑の傍らの道を進みました。
冊子「アウシュヴィッツ・ビルケナウ その歴史と今」によれば、アウシュヴィッツ2号・ビルケナウと呼ばれる収容所は、1942年3月1日活動を始め、敷地は広大で、有刺鉄線の囲いは13㎞を超えるということです。
1944年までに、もう一つのアウシュヴィッツ3号・モノビツェと47か所の副収容所と外部労働班が作られたと記されています。「それらの副収容所は、主にドイツの炭鉱や製鉄工場、その他のシレジア地方の企業及び農場の傍に造られていました」とあり、強制労働が行われていたことが分かります。
(1)アウシュヴィッツ2・ビルケナウへの道
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アウシュヴィッツ2・ビルケナウへの道 麦畑の傍らを進みました |
(2)被収容者を運んだ鉄路
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被収容者を運んだ鉄路 正面が「死の門」 |
(3)案内板
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案内板 ポーランド語、英語で書かれていました。 |
(4)鉄道のゲート
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鉄道のゲート「死の門」 左側の棟にショップがありました。 |
(5)収容棟の配置(一部)
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収容棟の配置(一部) |
(6)収容棟の跡
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収容棟の跡が広がっている(1) 北東方向 |
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収容棟の跡が広がっている(2) 北方向 |
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収容棟の跡が広がっている(3) 北西方向 |
(6)鉄路
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鉄路 |
(7)被収容者を運んだ貨車
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被収容者を運んだ貨車 |
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貨車の車輪 1913年製 |
(8)収容棟の外観
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収容棟の外観 |
(9)収容棟の内部
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収容棟の内部 |
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収容棟の内部 |
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収容棟の内部 改修工事中の表示がありました |
(10)崩れていく収容棟の跡
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収容棟の跡 レンガ造りの煙突が崩れていました |
(11)診療所(?)
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診療所(?) 医師と看護師が子どもと母親を殺した書いてありました |
一人で歩いていると、いまどの辺りにいるか見失う恐れがありましたが、「死の門」の塔を目安として,見当をつけながら歩きました。晴れた空から強い日差しが降り注ぎ、収容棟と通路を除く草原の緑は濃く、ところどころで小さなレンゲ(?)の花が見られ、心がわずかに和らぐこともありましたが、気分は重苦しく、晴れることはありませんでした。
インフォメーションセンターのショップで、前述の冊子と写真集を購入してから、駐車場へ戻りました。休憩場の売店でアイスクリームを買い、口に入れ暑くなった体を冷ましました。
バスは、2時半ごろ出発し、4時過ぎホテルに着きました。部屋に入り、ベッドに横たわり、休みました。
【余談】 写真集「アウシュヴィッツ‐ビルケナウ あなたの立っているところ・・・」は、アウシュヴィッツを生還したりり・ヤコブ(スヴァキアのユダヤ人)が見つけた写真200枚(エルサレムのヤド・ヴァシェム記念館蔵)の中から31枚の写真を取り上げ、現在と対比させたものです。写真家はパヴェル・サヴィツキという人、日本語訳は中谷剛氏。2013年に刊行されました。古い写真との対比を通して、今を生きている人の想像力が試されているように思いました。
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