2016年2月29日月曜日

ドイツ・ポーランド一人旅(41) 6月3日(火) 午後 アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ

バスに戻り、昼食用に買ってきたローストチキンを挟んだパンを取り出し、食べ始めました。照り付ける強い日差しにバスの屋根が焼けたようで、室内は暑く、温室の中のようでした。

1時過ぎ、バスはビルケナウに向かって出発し、ほどなく目的地に着きました。駐車場から小麦畑の傍らの道を進みました。

冊子「アウシュヴィッツ・ビルケナウ その歴史と今」によれば、アウシュヴィッツ2号・ビルケナウと呼ばれる収容所は、1942年3月1日活動を始め、敷地は広大で、有刺鉄線の囲いは13㎞を超えるということです。

1944年までに、もう一つのアウシュヴィッツ3号・モノビツェと47か所の副収容所と外部労働班が作られたと記されています。「それらの副収容所は、主にドイツの炭鉱や製鉄工場、その他のシレジア地方の企業及び農場の傍に造られていました」とあり、強制労働が行われていたことが分かります。

(1)アウシュヴィッツ2・ビルケナウへの道
アウシュヴィッツ2・ビルケナウへの道 麦畑の傍らを進みました
 (2)被収容者を運んだ鉄路
被収容者を運んだ鉄路 正面が「死の門」
 (3)案内板
案内板 ポーランド語、英語で書かれていました。
 (4)鉄道のゲート
鉄道のゲート「死の門」 左側の棟にショップがありました。
(5)収容棟の配置(一部)
収容棟の配置(一部)
(6)収容棟の跡
収容棟の跡が広がっている(1) 北東方向
収容棟の跡が広がっている(2) 北方向
収容棟の跡が広がっている(3) 北西方向
(6)鉄路
鉄路
(7)被収容者を運んだ貨車

被収容者を運んだ貨車
貨車の車輪 1913年製
 (8)収容棟の外観
収容棟の外観

(9)収容棟の内部
収容棟の内部
収容棟の内部
収容棟の内部 改修工事中の表示がありました
(10)崩れていく収容棟の跡
収容棟の跡 レンガ造りの煙突が崩れていました
(11)診療所(?)
診療所(?) 医師と看護師が子どもと母親を殺した書いてありました

一人で歩いていると、いまどの辺りにいるか見失う恐れがありましたが、「死の門」の塔を目安として,見当をつけながら歩きました。晴れた空から強い日差しが降り注ぎ、収容棟と通路を除く草原の緑は濃く、ところどころで小さなレンゲ(?)の花が見られ、心がわずかに和らぐこともありましたが、気分は重苦しく、晴れることはありませんでした。

インフォメーションセンターのショップで、前述の冊子と写真集を購入してから、駐車場へ戻りました。休憩場の売店でアイスクリームを買い、口に入れ暑くなった体を冷ましました。

バスは、2時半ごろ出発し、4時過ぎホテルに着きました。部屋に入り、ベッドに横たわり、休みました。

【余談】 写真集「アウシュヴィッツ‐ビルケナウ あなたの立っているところ・・・」は、アウシュヴィッツを生還したりり・ヤコブ(スヴァキアのユダヤ人)が見つけた写真200枚(エルサレムのヤド・ヴァシェム記念館蔵)の中から31枚の写真を取り上げ、現在と対比させたものです。写真家はパヴェル・サヴィツキという人、日本語訳は中谷剛氏。2013年に刊行されました。古い写真との対比を通して、今を生きている人の想像力が試されているように思いました。

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